[ま-001]
マイク・ケリー(1954年生)
mike kelly
 ナンセンスな作風で80年代末にアメリカで大ブレイクしたロサンジェルス在住のアーティスト。92年ソニック・ユースのアルバム『ダーティー』のジャケットに使い古しのぬいぐるみを使った作品の写真が起用されてから、日本でも美術関係者やアート系の学生やマニアックな若者がこぞって美術洋書店で作品集を買い求めたり、追従する作風の若手アーティストが頻出するといった現象を巻き起こした。ケリーの一見不気味で馬鹿げた作品の根底に流れるものは、本来はアメリカ西海岸的なラディカリズムとオカルティズムのはずだが、それが90年代の東京において「激ヤバ」や「不気味かわいい」といった言葉で形容される世紀末的な少年少女趣味に変換されたことは注目に値する。97年に個展のために初来日した際には、友人のアーティスト、ジム・ショーらと共にかつて興じていたパンク・バンド、デストロイ・オール・モンスターズを20年振りに再結成。東京と大阪で行われたライブでは大竹伸朗、ヤマタカアイ(ボアダムズ)、中原昌也(暴力温泉芸者)らがゲスト出演したことも日本のカルチャー・シーンとの独特な関連性を示唆している。
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[ま-002]
マイケル・ディミュロ
michael dimuro
 日本の野球に馴染めず、イジメにあって帰国した米国3Aの野球審判。97年米国と日本のプロ野球の交流発展のため、1年間セ・リーグの審判を務めるために来日したが、結果的にはわずか約2カ月で帰国することになった。問題となったのは6月5日の中日対横浜戦で、ストライクの判定に抗議した大豊選手に退場を宣告。それを不服とした大豊がデュミロ審判の胸を小突いた。後日彼は「身の危険を感じた」として辞意を表明。米国の審判協会からも即刻帰国するよう指示が出され、日本での契約を解除し6月12日に帰国した。この出来事は米国マスコミでも大きく取り上げられ、テレビのニュースでも報道された。また橋本首相やバーンズ米国報道官もこの問題に対して触れたほどである。
 確かに審判に手を出したという点では大豊に弁解の余地はない。ただ彼が判定に抗議した根底には「野球」と「ベースボール」のルールの違いが存在していた。米国の場合はデッドボール対策として内角に厳しく、外角に甘く判定するのが審判の慣習となっている。そのため外角はボール1個分外れていてもストライクとなるが、日本の審判はそんな球をストライクとは取らない。つまり選手は、2種類のストライクゾーンでゲームに臨まなければいけなかったわけで、それを考えれば一番の悲劇は選手にあったのかもしれない。大豊以外にデュミロ審判の判定に首を傾げる選手が多くいたことは事実である。彼を招聘したセ・リーグ関係者は、何のために彼を呼んだのかもう一度考えるべきだろう。
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[ま-003]
マイブーム
my boom
 一般に自分の中で流行っているものを意味する。みうらじゅんによる造語。個人の価値観が多様化した現在、このマイブームという言葉はかなりの頻度で使用されることが多い。個人時代を象徴する言葉として、最重要語句と言えるだろう。言ってみれば、オルタカルチャーなる概念も、このマイブームの集合体であるとも言える。しかし、みうら解釈による“真”マイブームとなると、もう少し話が大きくなる。真マイブームは、前記の要素に加え、自分内流行を世間に発信し、なおかつそれが大ブームになるように努力することまでを意味する。仏像、奥村チヨ、ボブ・ディラン、チャールズ・ブロンソン、いやげもの……みうらがいうこれらマイブームの対象は、自己完結にとどまらず、確かに世間へ大々的に発信されているのがわかる。マイブームという言葉の意味が、単なる自分内流行を指すのならば、一億総マイブーマーということになるのだろうが、マイブーマーを名乗るのが、みうらじゅん以外に見あたらないことからも、実はマイブームは安易に口にすることのもおこがましい、遠大なシロモノということなのだろう。
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[ま-004]
マインド・ビジネス
mind business
 心の隙間を埋める商売。
 たとえば身体改造も、その一つである。日頃からコンプレックスを感じる部位を持つ者は、「クレオパトラの鼻が〜」の反対で、「この一点さえ違っていれば、こんなふうではいないのに」と考えがちだ。それはたいていの場合、“こんなふう”の方が先にあるのであって、“生きにくい”という感じ、もっと恵まれていてもいいはずなのにという不充足感など、日常に感じる不全感から逆に遡って理由を作りあげていることが多い。むろん、そうであるとしても、自分自身がその理由と思い込んでいる部位を改造すれば、明るく暮らせるのだ、人生が変わるのだ、それでいいではないかと、たとえば美容整形医は主張するだろう。もちろん、そんなことは個人の問題である。ただ、美容整形、エステティックや痩身サロンの広告は、プロのモデルのような身体を「理想」として差し出して見せて、見る者に自分が「人並み」でないというコンプレックスを強めさせ、それでも金さえ払えばこんなになれるのだという欲望を募らせている。広告なのだから当たり前とも言えようが、そうした欠損感のあおり方には、えげつないものも多い。包茎手術の広告などにも、ずいぶんなものがある。こうした身体改造業界の「文化戦略」的な「コンプレックス戦略」は、じつはあらゆるマインド・ビジネスの基本形である。
 自己啓発書を開けば、やはり日常の不全感に巧みに誘いをかけている。もう少し積極性があったなら、もう少し明るく人に応対できれば、日々の生活も仕事もずっと楽しくうまくやれるだろう。このような気持ちは持たない人のほうが少ないくらいだが、そんな性格を簡単に“治す”方法があるかのように誘う本がよくある。生き方を教えてやろうというような本だ。その多くは、現状に不満のあるあなたが間違いで、現在置かれた状況を肯定的に、主体的に生きるべきだ、明るくなれ、強くなれ、といったようなことが書いてあって、そもそものコンプレックスとトートロジーでしかなかったりもする。積極的な人生を送れ、などというのもそうだ。それでも、否定的に指摘された部分にはもっともと思えてしまうところがあって、巻末にあるセミナーや商品の広告に申し込んでしまったりすることになる。
 自己啓発セミナーは、まさにマインド・ビジネスの代表。戦前から精神修養団体はあったが、戦後にまず目立ったのは、企業幹部らの人格教育を行うセミナーだった。徹底的な自己否定を通じて、己の欠損や自己防衛癖に気づかせ、“今ここ”を生きる主体性を獲得させるという、60年代からよく行われた感受性訓練(ST)は、ゆきすぎた暴力や、ときに精神障害を残すなどの問題が取りざたされて下火になり、マズローらの人間性心理学をベースとした潜在能力開発運動を経て、80年代になって登場したのが、より商業化したライフダイナミックスの集団セミナーであった。「気づき」の技法をマニュアル化し、さほど訓練を経ないトレーナーでも集団を相手に指導し、ドラマティックな演出によって強引に“気づき”の回心を体験させる。その体験を経た者は、決められた人数の新たな受講者をエンロール(勧誘)しなくてはならない。それができないことは、セミナーでの「気づき」を裏切ることになる。
 これは、ネズミ講の商法だった。ライフダイナミックスの創始者ホリディ・マジックはマルチ商法の親玉、そして日本でライフダイナミックスに出資し、アーク・インターナショナルと改称して取締役になったのは、「催眠商法の教祖」と呼ばれた島津幸一だった。セミナーの本質は、マルチだったのである。ライフダイナミックスから独立して、新しいセミナーを始める者たちも次々と現れ、80年代半ばには“気づき”という言葉とともにセミナーを受講することが流行し、“本当の私”を求める人たちが、次々と子ネズミを勧誘しながら、“本当の私”の充足を味わった。
 このように自己開発セミナーがマルチ商法とセットになりえたのは、そもそもマルチ商法にマインド・ビジネスとしての側面が強くあるからでもある。米資本のアムウェイ、ニュースキン、またダイエーが日本アムウェイの初代社長を引き抜き社長に据えた子会社エックスワンなど、いわゆるネットワーク・ビジネスは各種あるが、その担い手である「ディストリビューター」、即ち販売員の大部分は、その扱う製品の素晴らしさに惚れきっており、それを売ることを誇らしく、相手のためとさえ思っている。販売員らは、商品説明会や販売法の研修会を自主的に行い、互いに商品の素晴らしさを語りあったり(顧客に商品の魅力を説明するための勉強になる)、体験でみつけた販売や勧誘のコツを教えあったり、ポジティヴ・シンキングして成功をイメージしようなどという人生論、処世訓を確認しあったりして、価値観の等しい者たちの共同体的な居心地よさと拘束とを作りあげてゆく。多くの販売員は、そのような場で、会社では出会えないような人たちと知り合えたと、そして共通の価値観を持つ友人ができたと喜んでいる。だから、家庭や職場で不全感やコンプレックスを持っている人、孤独を感じている人ほど、深くのめりこみやすい。
 ディストリビューターは、個人的な人間関係をツテに訪問販売し、惚れこんだ商品の素晴らしさを語り、さらにこのビジネスのシステムを説明して、努力次第でどれほど巨額な収入が得られるかを夢見るように話す。もちろん本心からそう思っているのだが、自分の系列下にオルグするためでもある。えげつない商売だが、当人は商品もシステムも素晴らしいものだと信じているし、ポジティヴ・シンキングしなくてはいけないので、その正否を疑うようなことはしない。命令されるわけではなく、そのような信念の共同体に組み込まれてしまうのだ。オルグすることは、当然、素晴らしいものを勧めることなのだから遠慮はしない。宗教の勧誘と同じである。アムウェイの場合は、中島薫という教祖的な人物もいて、販売員たちの理想となっている。島根県で楽器のセールスをやっていた身が、今ではアムウェイによる年商が450億円と推定されている立志伝中の人物だ。その成り上がってのゴージャスぶりが、アムウェイの理想なのである。こうしたビジネスにハマる人たちは、船井幸雄の書をバイブルにしていることが多い。船井に学ぶというより、ポジティヴ・シンキングを始めとする船井の人生論、社会論は、彼らの活動方法の正しさを保証するものなのである。
 船井幸雄自身もさることながら、船井が次々と推薦する人々にも、マインド・ビジネスに励む人が多い。船井の推薦を受けたものには、概ねろくなものはないように見えるが、推薦を貰った本は売れるという。たとえば、巷の超科学的なインチキ発明品を片っ端から紹介して、明日にも世界に大変革が起きるかのように言い放つ工学博士、深野一幸。夢を売っているといえば聞こえはいいが、詐欺師列伝としたほうがいいような本だ(そう思って読めば面白くないでもないが)。ただの嘘発見器を波動測定装置などと称して数百万円で売ったり、その装置で波動を「転写」したという「波動水」を病人に通販したりしている江本勝。波動ブームの仕掛け人だ。
 波動という概念はおそろしく便利で、これさえ使えば、あらゆるもののよし悪しが表現できる。あの人は波動が悪い、この人とは波動が合わない、この場所は波動がいい、などと、ちょっと前までは“気”という言葉が使われたような場面で、最近は波動と言われるようになった。“気”の強さを波動の数値で示すこともある。両者は同じものとの解釈もあるが、波動というほうが「科学的」に聞こえ、数値化もできるから、より魅力的なのだろう。悪い電磁波を中和して無害にする波動を持つシールや、身につけていると健康になる波動を持つペンダントなど、商品への転化も簡単至極で、波動を転写した水なら、原価はタダ同然である。商品紹介には波動の計測値を記すことで、その優れていることを示すことができる。
 疑似科学的な装いで人の心をつかんだいま一つのものは、である。春山茂雄『脳内革命』(サンマーク出版)は、内ホルモン[β]エンドルフィンをキーワードに、いつも心を快活にしていれば健康でいられると説いて、大ベストセラーとなった。また、ダニエル・ゴールマン『EQ こころの知能指数』(講談社)は、大脳新皮質の回路を通っての理性的な思考に対して、扁桃核経由の短絡的な回路による情緒的判断こそ、人間の成功に必要なものだと主張し、それをIQに対するEQと呼んだ。学歴偏重社会にスポイルされた気分を慰めるには、いい話である。もっとも「世間で生きるには、頭がいいだけじゃ駄目だ、心が大事なんだ」という古風な説教を、脳科学で理屈づけただけにすぎない。それでもEQという言葉は、社員研修などのセミナーのタイトルに冠されたりするようになった。
 最新の脳科学を基にして新たな人間学を唱えているかのようなこの二著はどちらも、読者がすでに知っていることを、「ああやっぱり科学的にもそうなのか」と思わせて、心地よくさせた本だった。それは船井幸雄の著書にも共通する特徴である。外部に出会う緊張は求められず、自分に似たものとわかりあう快さに浸っていたいのだ。
 だから今、もっとも盛んなマインド・ビジネスは“癒し”の周辺にある。アロマテラピー、アーユルヴェーダ、ハンド・ヒーリング……またカウンセリングが流行しているのもその一環だろう。とくに目立って流行っているのは、アダルト・チルドレンである。現在の不全感の原因を、幼小期に親から受けた仕打ちに集約させ、自らがアダルト・チルドレンであると自覚し、“本当の自分”の欲望に“気づく”までのプロセスに、他者はいない。インナー・チャイルドを慰め、癒して欲しいだけなのである。アダルト・チルドレンと自覚した人々には、今度は同じ境遇の人々のためのカウンセラーになりたいと考える人が少なくないという。わかりあえる者たちとの共同体が欲しいのだろう。“癒し”のサービス業は、今後ますます増えるにちがいない。こうした風潮は表向き優しく穏やかながら、そのうち、人を傷つけることより、自分の心の傷つくことのほうが悪となりかねなく見える。(田中聡)
WEB 


[ま-005]
槙村さとる(1956年生)
まきむら・さとる
 ベテラン少女漫画家。70年代後半、『別冊マーガレット』に連載されていた『白のファルーカ』『ダンシングジェネレーション』などの作品で人気をはくす。その後も『別マ』を舞台にコンスタントな活動を続けていたが、ヤングレディースという分野の成立により、活躍の舞台をそちらに移してから、がぜん輝きを放ちはじめる。TVドラマにもなった人気作『おいしい関係』(『ヤングユー』連載)もさることながら、『コーラス』連載中の『イマジン』の人気も高く、これはひとえに主人公・有羽の母親である美津子さんの人物造形によるところが大きい。実際、第一級の建築デザイナーで、力を抜くところは抜き、自分の欲望には忠実で、だがけっして相手に振り回されず、「セックスはね、五感をフルに使うのよ。知性も野生も教養もセンスも人間性も、とにかく総動員して、すっぽんぽんで一対一でやるのよ。だからセックスがいいってのは、その他の相性もかなりいいってことよ」と言い放つ彼女は、まさに女にとっての「かっこいい女」。しかも読者は、物語中に時折挿入される彼女の過去の姿を通じて、彼女が昔からこうだったわけではなく、年月と経験とが真の「私」を作り上げることを知る。まさに槙村さとるの作品は「少女マンガもオトナになる」その象徴をなしているといっていい。
WEB 稀Jrの100冊(第22冊)
http://www02.so-net.or.jp/~marenijr/nikki/nikki-022.html


[ま-006]
幕張
まくはり
 木多康昭のマンガ作品。うすた京介『セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん』が終了した現在、『週刊少年ジャンプ』のギャグ部門を支える要となっている。95年連載開始。県立幕張南高校野球部の1年生トリオ、一応主役の塩田鉄人・ロリコンの奈良重雄・元剣道部員の叶親浩司は、ひょんなことから(といってもこのマンガには「ひょん」しかない。「ひょん」こそ登場人物の行動原理だ)「世界最優秀高校生大会」に出場、勝ち抜いて日本代表となり、香港行きの切符を手にした(鳥山明の『DRAGON BALL』以来、“大会”への参加は『ジャンプ』の伝統。『マサルさん』も同様)。巨乳マネージャーの桜井美保も香港に行きたいと言い出すが……。
 青春ストーリーマンガかと見紛う密度の濃い画面。野球も大会も、ストーリーらしきものを作るための言い訳に過ぎない。登場するのは呼吸の代わりにギャグをかますような男たち女たち。もちろん彼らにその自覚はない。手前から画面の奥を振り返って凝視したり、前面(読者の側)に乗り出したりする様子が自らの内面を探しているようで、緊迫した感じが出てくる。そこに飛び交う下ネタ・変態ネタの数々。少年誌だからといって自主規制しない天晴れさを見せる一方、休みたい遊びたいと作中で嘆く木多康昭。可愛い女の子を描くパターンを幾つか持てば、この作者、鬼に金棒かも知れない。単行本は集英社から。カバーを取るとこれまたギャグが。
WEB 


[ま-007]
真心ブラザーズ
まごころぶらざーす
 倉持陽一と桜井秀俊によるグループ。「どかーん」で「フォーキー」なイメージから、グループ名から“The”がとれた『KINGOFROCK』で一皮むけ、男子からもワーキャー言われる存在となる。「スピード」「拝啓、ジョン・レノン」で見せる倉持のスター性、そして「サマーヌード」や「ループスライダー」で見事なソングライティングを発揮する桜井のナイスなコンビネーション。物欲王を自認する倉持の貪欲さが、サウンド面にもにじみ出て、ビースティーのりからボブ・ディランまで、己の嗜好の赴くままぶちまけた作品群は、まさにオルタナテイブといった感がある。倉持はエレファント・ラヴ、桜井はパイオニア・コンボとそれぞれ別ユニットでも活動。そうした課外活動の成果もきちんとフィードバックされ、真心本体をさらに強靱なものとしている。
WEB SUPER MAGOKORO FREAK ULTRA
http://www.dtinet.or.jp/~p-chan95/
WEB digital_magokoroid
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/shino23/


[ま-008]
マジック・マッシュルーム
magic mushroom
 ペヨーテ(烏羽玉)、ダチュラ(チョウセンアサガオ)、ベラドンナ、カバカバ、ヨヒンベ、アヤワスカ等々、法規制を受けていない幻覚性・向精神性植物は数多あるが、イリーガル・スタッフ(非合法ドラッグ)並みの効きを有しているのは、マジック・マッシュルームをおいて他にないだろう。マジック・マッシュルーム(以下MM)とは、シロシビン、シロシンという幻覚性物質を含むキノコの総称で、我が国にもシビレタケ、アイゾメシバフタケ、センボンサイギョウガサ、ワライタケなど、十数種類ものMMが自生している。MMから初めて有効成分の抽出に成功したのは、LSDの発見者であるA・ホフマンで、58年にはサンド社が商品化、後のサイケデリック・ムーブメントは、まずシロシビン/シロシンに始まり、それからLSDに以降して急展開していったと言える。オムレツに入れる、みそ汁やコンソメスープの具にする、アルコール抽出した後アルコール分を加熱揮発させて飲むなど、服用法は様々で、作用はLSDと酷似している。異なる点と言えば、摂取後の吐き気、目を閉じたときに見える瞼裏の幻覚がLSDを上回るといった2点ぐらいか。97年9月現在の日本では、シロシビンとシロシンは取締り対象となっているが、それら有効成分を含むMMそのものは規制対象外、つまりお咎めなしである。昨年あたりから乾燥MMを販売するショップも現れてきたが、米ホームステッド社からMMの胞子及び培養キットを輸入し、自家培養している者も増えてきているとか。ちなみに、同じ幻覚性キノコでも、オオワライタケ、ベニテングタケは有効成分が異なり、MMのカテゴリーには入らない。
WEB magic.html
http://www.nnc.or.jp/~hiroyuki/magic/magic.html


[ま-009]
町田康(1962年生)
まちだ・こう
 カルト的パンク歌手にして小説家。81年、INUとして「飯喰うな」でレコード・デビューする前から、熱狂的なファンを獲得していた。当時の名前は町田町蔵。INU解散後も、至福団や人民オリンピックショーなどで活躍。キャプテン・ビーフハート的複雑なリズムを使うなど、常にアバンギャルドなパンクを演奏してきた。同時に役者としても注目され、『爆裂都市』『ロビンソンの庭』などに出演。山本政志の『KUMAGUSU』では南方熊楠を演じるものの、映画そのものはいまだ完成していない。92年、詩集『供花(くうげ)』を発表、続いて93年、詩ともエッセイとも判然としない短文集『壊色(えじき)』を発表。95年改名。96年、『文学界』7月号に処女小説『くっすん大黒』を発表。当初、この作品をめぐって、業界は賛否量論。「下品」という酷評や、なかには「こんなものを載せた雑誌編集者の見識を疑う」といった発言をする老人もいた。若手批評家はこれに反発。退屈な純文学にうんざりしていた文学ファンからも町田支持の声は高まった。そのなかで受賞こそ逃したものの、第116回芥川賞候補に。97年夏、第7回ドゥマゴ文学賞(筒井康隆選考)に選ばれる。時間の経過とともに、町田に対する否定的意見は陰をひそめ、肯定的意見が多くなる。まるで文壇の老人たちが、若い消費者に色目を使っているようなその変化は、批評の軸を失った現代の日本文学を象徴している。
WEB 南蛮ホームページ
http://www.tokyo.xaxon-net.or.jp/~kitcho/nanban/index.html


[ま-010]
マッキントッシュ
macintosh
 84年にアップルコンピュータが発売を開始した、グラフィカル・ユーザー・インターフェイス(GUI)のパーソナル・コンピュータ。スティーブ・ジョブズがゼロックスのパロアルト研究所で見た未来のコンピュータの試作機「ALTO」をヒントに、開発者をスカウトして完成させた。マウスによるポイント・アンド・クリックやマルチフォント・マルチサイズのビットマップ・ディスプレイ、音声やアニメーションをテキストと同レベルで扱えるマルチメディア性能など、コマンド入力があたり前だった当時としては画期的な製品であった。
 アップル社、というよりもスティーブ・ジョブズにはデザインに対する一貫したポリシーがあり、それが見事に結実した製品がこのマッキントッシュ(マック)だろう。筐体はもちろんだが、アイコンやフォントなどのデザインに始まって、パッケージやマニュアルまで気を配られた初期のマックは、その値段の高さも手伝い、コンピュータ界のポルシェと評された。また、アドビシステムズの開発したポストスクリプト・プリンタを最初に採用したパーソナル・コンピュータもマックだ。これによってDTPというデジタル出版の技術が確立した。またいち早いCD-ROMの標準化やクイックタイムという動画の業界基準を提唱したことで、マルチメディアに強いコンピュータという印象をもたらした。
 しかし、デザイン・出版業界では高いシェアを誇っていたマックだが、互換機ライセンスを認めなかったことや、販売戦略の失敗、OSのアップデートが後手にまわったことなど、高価で不安定なマシンという風評がシェアの拡大をじゃまし、ついにライバルであったマイクロソフトからウィンドウズ95が出現するにあたって、OS戦争では5%以下のシェアに落ち込んでしまった。ビジネスとしては完全な敗北といえる。ここ数年は毎年のようにアップル身売りの噂が立っているが、アップルを追われてNeXT社を率いていたスティーブ・ジョブズが96年末に戻り、現在大幅な建て直しを図っているところである。
 マイクロソフトとの提携や互換機ライセンスの解消が新聞を賑わしたが、幸いに新バージョンのマックOS8が好評で、今後はPDAのNewtonをベースにしたNC(ネットワークコンピュータ)とマックOSによるパーソナル・コンピュータ市場、そしてOPENSTEPをベースに開発中のRhapsodyをサーバ市場にという3本柱がアップルを支えていくのではないかと考えられている。ビジネスに特化されたウィンドウズのマシンと比べ、マックにはクリエイターの心をくすぐる部分が残っている。これは初期のデザインポリシーが現在も生き残っているためで、ユーザーにはマック教とも呼べるような熱烈なファンが多い。アップルのロゴマークに西海岸的、カウンターカルチャーの雰囲気を感じとっていた人も少なくないはずだ。ジョブズという強力な役者を抱えたアップルからはまだしばらく目が離せないだろう。
WEB apple
http://www.apple.co.jp/


[ま-011]
松田優作(1950年生)
まつだ・ゆうさく
 死後10年近くたつが、ますます人気を増す伝説的俳優。現在の優作人気を支えるのは、『太陽にほえろ!』のジーパン刑事、そして3本の『遊戯シリーズ』、そのTV版とも言える『探偵物語』における松田優作像だろう。とくに『探偵物語』でのハードボイルドとユーモアと二つの顔を同時に持ち、そして渋谷の路上であっけなく死を迎える主人公・工藤俊作の姿に、多くの者が松田優作を投影しているフシがある。キムタクによる完コピパロディや『探偵物語』のフィルムが使われた缶コーヒーCF(ショーグンの新録CFソング入り!)、アンダーカバーでのTシャツ発売など、現象面だけも見ても、世間の松田優作に対する支持の高さがわかるというものだ。上の世代には石原裕次郎や市川雷蔵といったカリスマ的存在は多いが、若い世代にとっては松田優作やブルース・リーといった人が、その活躍ぶりと突然の死を見届けたことで、その大きさを感じることができるリアルな存在といえるのではないか。
WEB 松田優作データベース
http://www.hal.ne.jp/shinji/index.html
WEB なんじゃぁ、こりゃぁ!
http://www.yui.or.jp/~abe/mu/


[ま-012]
松本弦人(1961年生)
まつもと・げんと
 グラフィックデザインができるマルチメディア・アーティストではなく、マルチメディアもできるグラフィックデザイナー。デジタル的なアプローチとしてもっとも早くかつ印象的だったのは、佐俣正人が編集したフロッピー付きマガジン『A.P.E』(92年)、『M.O.P』(93年)のアートディレクションだったかもしれない。その後もフロッピーをテーマにした「マッキントッ書」「フロッケ展」を企画するなど、グラフィックデザイナーならではのデジタル的な表現を次々と発表していった。初のCD-ROM作品「ポップアップコンピュータ」(94年)で、中にいくつかのポストスクリプト・フォント(デジタルフォント)が付いているのもそういったアプローチの一つである。また96年には、CD-ROM第2作「ジャングルパーク」を発表し、6万部を超すというセールス記録を打ち立てた。彼の創り出すCD-ROMは、既存のCD-ROMにはない発想と切り口があり、セールスはもちろんのことクリエイティヴィティの部分での評価が非常に高い。歴史の浅いCD-ROMというメディアであるが、名作としてこれからも残りつづけるであろう。彼の作品は作品集「松本弦人の仕事とその周辺」(六耀社)の中で見ることができる。現在はNintendo64のソフトを作成しているらしい。
WEB ジャングル・パーク
http://www.digitalogue.co.jp/support/jungle/index.html


[ま-013]
松本幸四郎&市川染五郎父子
まつもと・こうしろう&いちかわ・そめごろうおやこ
 高嶋ファミリー化がすすむ梨園の名門。新劇や小劇場の俳優が歌舞伎の舞台に出ることはかなわないが、その逆は可である。そこで、この父子! 父・幸四郎はかつてハムレットを演じ、シェイクスピア劇の奥深さに目覚め(といっても、これは歌舞伎の発祥と同じ安土桃山期に成立した劇だからまだしもだが)、翻訳劇や現代劇にも積極的に取り組み、ミュージカル『ラマンチャの男』の看板を背負って立ったかと思えば、今度は息子、染五郎が牧瀬里穂との時代劇ミュージカル『初春狸御殿』で歌い踊る。そして97年、ついには三谷幸喜書きおろしの『バイ・マイセルフ』で父子共演を果たした。長女・松本紀保と末娘・松たか子を加えての幸四郎ファミリー劇団構想もぶち上げられ、ファミリーコンサートが定着しつつある高嶋ファミリーに刻々と近づきつつある(?)幸四郎一家。次は何をしてくれるか、興味はつきない。
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[ま-014]
松本大洋(1967年生)
まつもと・たいよう
 マンガ家。東京都出身。構成意識に満ちた長編の連載の合間に、実験的なことを敢えて取り込んだ短編を発表するのがこの作家のペース。人間の内面に眠る、強烈・凶暴な衝動や純粋さへの希求を抉り出し、ハイコントラストの画面に定着させる技が見事。以前それは、絵が物語をねじ伏せようとする「力技」と映った。最近は、絵が物語を、物語がこの絵を要求しているのだと思えるまでに洗練の度を増し、“松本節”を堪能させてくれるようになった。
 通常、マンガ家にアーティスティックな志向が高まると、マンガはイラストレーションのような一枚絵の連続になってダイナミズムが失われてしまう。松本の場合はその危険地帯を切り抜け、「最高度に完成された絵でダイナミック、かつ面白い」という奇跡的なマンガを生み続けている 86年、講談社『アフタヌーン』の増刊号でデビュー。88年『STRIGHT』(コミックモーニング)が初連載作。天才的な速球派投手と、それに劣らぬ才能の技巧派投手が日本プロ野球界に挑む。二人の登場人物に対立した人格を与えるというお馴染みの手法が、既にここで見られる。それまでのボクシングマンガが王者を目指す物語だったのに対し、登場時点で主人公がチャンピオンである『ZERO』(91年)を、小学館『ビッグコミックスピリッツ』で発表。以後も同誌を中心に活躍する。齢三十にして巨人軍入りを果たそうとする男・花田花男と息子・茂雄の物語『花男』(91年)、松本の評価を決定的にした『鉄コン筋クリート』(93年)。『鉄コン』は暴力に支配されてゆく町・宝町に生きるフライング・キッズ、クロとシロの躍動を描く。人間の暗黒部分と純粋な部分を抽出してキャラクター化、町そのものまで人格化し得た驚異的な作品だ。97年秋には、血湧き肉踊る卓球マンガで自身の最長作品『ピンポン』(96年連載開始)を完結させた。単行本は他に『青い春』(短編集)など。
WEB 作品紹介
http://www2p.meshnet.or.jp/~j%2dbito/matumoto/sakuhin.html


[ま-015]
幻の名盤解放同盟
まぼろしのめいばんけいほうどうめい
 善悪の彼岸を問わず、人の生をすべて歌ととらえ、「いい顔といい歌を既存のあらゆる倫理/道徳、価値体系から解放」するために結成された、根本敬(特殊漫画家)、湯浅学(音楽評論家)、船橋英雄(デザイナー)によるユニット。82年に3人がこの名義を使って自販機本『コレクター』誌上で廃盤クロスレビューを始めたことが事実上の活動開始。以後、廃盤レビューと中古レコード蒐集などの活動を展開。85年には朝鮮韓国人人種差別糾弾シンガー・川西杏(チョン・ソヘン)や、ポンチャック・ディスコなどを発掘。その後渡韓取材を重ね、87年同盟共著による『ディープコリア』、93年『ディープ歌謡』を発表する一方、「幻の名盤解放歌集」として復刻CDのシリーズ・リリースをプロデュース。ガロビデオ・シリーズとして青林堂から発売された『ひさご』『幻の大本営』なども監修。95年からは新宿のトークライブハウス・ロフトプラスワンでも定期的に名盤の解放闘争を行ったり、因果者としての「いい顔オヤジ」の発見と紹介に務めている。同盟は「自ら進んで業を背負いつづけるものにこそ真理の光を見る」と書いているが、実際彼らの紹介してきた歌手や因果者たちは、ドヤ街、夜のゴミ捨て場、場末の路地を聖地として生きている者ばかり。彼らを描くことで同盟はサブカルチャーの極北を担ってきたのだ。
WEB 韓国ロックの夕べ
http://pweb.aix.or.jp/~koji-katsu/rocknoyu-be.html


[ま-016]
マリーガル
marigul
 任天堂がリクルートとの共同出資によって設立した新たなゲームクリエイターの発掘・育成を志すマネージメント会社。複数のゲーム企画に対して、投資家から出資を募り、才能あるクリエイターに対してゲーム制作の環境を与えるという、ベンチャーキャピタル的な役割を担う。この結果、才能あるゲームクリエイターはその環境を整備するための資金調達やマネジメント業務から開放され、よりよいゲームを開発するために才能を傾注できる、というもの。任天堂はこの事業によって開発ラインを強化し、遅れていたソフトラインナップを補強しようと考えている。
 かつては、PCとプログラマーがいれば、最低限のゲームは制作できたが、3DCGが当たり前の現在のゲーム制作においては、かつてとは比較にならない規模の環境が必要になる。ソニーはこの点をうまく見越して、安価な開発環境を用意し、プレイステーションの開発段階からゲーム開発会社に対して万全のサポート体制を整備してきた。しかし任天堂は逆に、優れたハードスペックが災いし、ゲーム開発者達に“敷居が高い”という印象を与えてしまった。もともとCD-ROMをメディアとするPSと、ROMカートリッジをメディアとするNINTENDO64では、開発費に大きな開きがあり、N64用のソフトを開発するにはSGIのワークステーションや、エイリアスウェーブフロント社の「パワーアニメーター」等、ハリウッドのSFX業務並の設備を必要とする。このため一説では、PSとN64用のソフトを開発するのでは開発費が2桁違うという話さえある。今回のマリーガルマネジメント社設立の背景には、こうした開発費の高さから起こった開発者離れを引き留める意味も含まれている。現在、『ダービースタリオン』の開発者である薗部博之や『アクアノートの休日』『太陽のシッポ』の開発者・飯田和敏が、この開発ラインでN64用のゲームを開発している。
WEB 
http://www.orange.or.jp/~akao/HONKO/honks61.htm


[ま-017]
マリファナ
marijuana
 今や日本など東南アジア数カ国を除くほぼ全ての先進諸国にあって、“麻薬”なるカテゴリーから外れ、いちばん効く“嗜好品”=ソフト・ドラッグとの認識が定着しつつあるナチュラル系向精神物質(向精神性植物)の代表格。和名は大麻、麻、ストリートではクサ、ハッパと呼ばれる。インド名はガンジャ。葉(リーフ)や花穂(バッズ)の表面に分泌されるネバネバした樹脂に、主要有効成分であるTHC(テトラヒドロカンナビノール)が含まれており、この樹脂をこそげ取って練り固めたのがハッシシ(大麻樹脂)、通称チョコだ(インド名はチャラス)。
 乾燥大麻、あるいは炙ってほぐした大麻樹脂を煙草の葉などに混ぜたものをパイプに詰めたり、シガレットペーパーで巻いたもの(ジョイント)で喫煙するのが一般的な摂取法であり、煙を肺一杯に吸い込むや、心身に多種多様な効果が表れる。心地よい目眩、気が遠くなる、多幸感、皮膚感覚の鋭敏化、性欲の昂りほか、マリファナがもたらす作用は実に多彩で、その要因としては使用者のセット(心境)やセッティング(環境)、個々人の性格や体調のほか、マリファナそのもののクオリティの違いが挙げられる。大雑把に言えば、マリファナ(乾燥大麻)、わけても受粉していない雌株の種なしバッズ=シンセミアはアッパー(興奮剤)/サイケデリックス(幻覚剤)系に働き、一方、ハッシシはダウナー(抑制剤)傾向が強い。また、ありとあらゆるドラッグのベースになる、すなわち全ての向精神性物質の作用を高めるという点も、マリファナならではの見逃せない薬効であろう。さらに、数時間〜十数時間前に使用したケミカル・ドラッグの効きを“戻す”効果も、マリファナにはあり、眠ろうと思って一服、昨日やった覚醒剤が戻ってしまって、朝まで一睡もできなかったなどという情けないエピソードはよく耳にするところだ。
 ソフト・ドラッグの雄として、近年では、緑内障の治療薬、末期癌患者やエイズ患者の食欲増進剤として医薬的な立場からも脚光を浴びている。97年9月現在の末端価格は、1グラム1500〜3500円。日本では48年に制定された大麻取締法により、その栽培、所持、譲渡、売買、使用は、いまだに覚醒剤並みの重罪(刑事罰)をもって規制されている。最後に面白い格言(?)を一つ。「俺の生き甲斐は食べることとマリファナを吸うことだ。だから、俺はマリファナを食べ続ける」なるほど……。81年に出版された『マリファナ・ナウ』(第三書館)は、マリファナに関する必読文献。
WEB 


[ま-018]
マルタン・マルジェラ
martin margiela
 美術アカデミー「アントワープ」出身デザイナーの中でも、図抜けた個性と技術を持つデザイナー。スーパーモデル過熱の時期にモデルに顔カバーを着けて歩かせたり、裁断用の紙でジャケットを作ったり、コレクションを白と黒に分けて別会場で行ったり、そして服のタグはただ真っ白、とファインアートと見まごう服作りは一部で熱狂的に支持されていたものの、ただのアヴァンギャルドで済まなかったのは、今年あのエルメスのプレタポルテのデザイナーに抜擢されてしまった! マルジェラのアーティストとしての器と同時に、クラシックで丁寧な職人の部分もちゃんと見てきて評価しているわけで、さすがフランスである。一見ガリアーノのディオール、マックイーンのジバンシイ等と比肩の扱いと思いきや、やはりエルメスというブランド、マルジェラというデザイナーの性格を見つめてみると極めて面白い、甘く危険な英断だろう。ファッション雀たちの目下の一番の熱い話題でもある。単純に楽しみ。マルジェラ自身は、エルメスに就任が決まってからも、自分のコレクションで服にバクテリアを着けて繁殖させるなど、相変わらずのマルジェラぶりである。ストリートのカリスマなる人物も注目している、なんてのは当然すぎるとしても、テレビで瀬川瑛子が着てたのにはちょっとビックリ。
WEB アントワープ
http://acwww1.aimnet.or.jp/USER/yamachan/antwerpe.html


[ま-019]
漫☆F画太郎
まん・えふ・がたろう
 ギャグマンガ家。漫画太郎とは別人。90年に『週刊少年ジャンプ』連載の『珍遊記』でデビュー。当時のペンネームはF抜きで「漫☆画太郎」。鳥山明『DRAGON BALL』などと同じくマンガ界の由緒正しきネタ元『西遊記』を下敷きに始まったが、脱線につぐ脱線で『西遊記』のパロディですらなくなり、さらに確信的に始めたであろうコピーの多用でジャンプ読者を唖然とさせた。それは部分使用というレベルではなく、セリフだけ違って全く同じ絵のページが何度も現れるのだ。絵もすさまじかった。後に彼はジャンプ連載作『北斗の拳』(武論尊・原哲夫)への讃辞を披露しているが、『北斗』並みに描き込もうとしたのか、ボールペンで殴り描きしたような、重なり合った強い筆圧の線がページの端までを埋め尽くしていた。
 連載のあまりのテンションの高さに、その終了時には、もうこれ以上描けないのではと読者の誰もが心配した。だが、物理的に多くの枚数を描かなくてよいせいか(コピーを使うので)、コピー使い廻しに更なる磨きをかけて、あっけなく復活。今やコピー&エディットギャグメーカーの第一人者である(続く人がいないので)。代表作に『くそまん』『地獄甲子園』がある。単行本は全て集英社から。ただし『珍遊記』全6巻は、何故か絶版。
WEB KTR's Comic Room: Weekly Jump Data
http://www-masuda.is.s.u-tokyo.ac.jp/~ktr/Favorite/Comic/jump.html


[ま-020]
マンガ解説本
まんがかいせつぼん
 マンガの出版部数に比して、マンガを語った出版物はあまりにも少なかった。例えば文学の分野なら、表現されたものとそれに対する評論が互いの「言葉」を鍛え、車の両輪のように「文学なるもの」を支えてきたという歴史がある。マンガの場合、70年代末までは、マンガの現場にいない評論家などが自らの思想にマンガを引き付け、作品テーマを探ることに主眼を置いて論じた「評論」がほとんどであって、「マンガをマンガとして論じる」姿勢のものは珍しかった。この不幸は、絵を読むことができる、それを言葉にできる人がいなかったことによる。
 80年代にかけて村上知彦、夏目房之介らが、思想的な立場ではなく、マンガの内側からマンガを語ろうと試みた。現在、マンガに関する活字本の多くは、こちらの流れをくむものである(作品世界の事象を項目化して語る「謎本」も、一時期の勢いは失せたものの地道に出版され続けている)。メルクマールとなったのは、マンガ家・いしかわじゅんの『漫画の時間』(晶文社、95年)であろう。100のマンガを解説しながら(いわゆる「評論」という手続きは踏んでいない)、マンガ家自身がマンガの楽しみ方を伝授するというこの活字本は、異例の1万部以上を売り、現在も版を重ねている。96年発行の、1000作品を83のジャンルに分類して解説を付したマンガガイドブック『このマンガがすごい!』(宝島社「別冊宝島」)は15万部を突破。マンガ界をリタイアした作家を追い、業界の構造的な問題まで炙りだして見せた大泉実成のルポルタージュ『消えたマンガ家』(太田出版「800円本」シリーズ)も10万部を超えるヒットとなり、この両書の成功に刺激されたか、福昌堂(マガジンムック)、水声社(「マンガ地獄編」シリーズ)、洋泉社(「まんが秘宝」シリーズ)などから、A5判の「マンガを語る本」が続々と刊行された。
 先に挙げた「別冊宝島」からは『70年代マンガ大百科』『日本一のマンガを探せ!』、800円本シリーズからは『消えたマンガ家2』、宇田川岳夫『マンガゾンビ』といった本が後に刊行されている。
WEB 


[ま-021]
マンガ喫茶
まんがきっさ
 突如復権した70年代型のサロン。立ち読みを書店の親父にハタキで牽制する牧歌的な時代が、シュリンク・ラップ(薄いビニールを熱で密着させたカバー)の登場と共に終焉を迎え、マンガは買わないと読めないというステイタスを作ることになった。しかしマンガ単行本全体の価格はジワジワと上がり続けているし、名作マンガの大判単行本での復刻ブームなど、個人の財布では読みたいマンガ全てをフォローできなくなっている傾向もある。またマンガ単行本の発行サイクルは非常に早く、初版本を買いそびれるとなかなか手に入らないことも多いので、読みたいマンガがいつでも読めるマンガ喫茶が再び歓迎されることとなったのだろう。主な客層は独身の男性サラリーマンや学生を中心に、デートに飽きた学生カップル、化粧っ気のない女性のグループなど、街の活気にハジカレたような人達が図書館のように静かで張りつめた空間の中で、一心不乱にマンガを読み進めているのはかなり不気味な光景だ。喫茶店とはいえ、空腹を満たすことが優先事項ではないためモーニングやランチタイムに客が集中しないことや、ドリンクなどメニューが少なくて済むため店員の教育も簡単、といった具合に経営的な利点も多く、カラオケボックス・ブームがひと段落した今、貸しビルの空き室を次々と占拠している。
WEB 


[ま-022]
マンガ失速
まんがしっそく
 マンガが完全に失速した。「壊滅状態」と言える。マンガの雑誌と単行本の総売上額は、少なくとも80年代以降94年まで上昇の一途をたどり続けてきた。この永遠に上昇し続けるかのように思えた折れ線グラフも、95年についに下降し始めたのだ。  雑誌では、その高度成長の象徴『週刊少年ジャンプ』も同じく、95年の新年号以降、その歴史上初めて部数を落とし始めた。以後も急激に下降を続け、一応看板連載を持つ『少年マガジン』を下回る勢いだ。また同じく高度成長を支えた『ヤングマガジン』などの青年誌界はさらにひどい。なにしろどの雑誌にも看板連載などなくなっているのだ。少女マンガ誌では人気作家のかなりの顔ぶれが10年以上も前から固定化し、膠着状態に陥り苦戦。一時期乱立したレディスコミックや4コマ誌は完全に廃れた。マンガは随所でゲームやアニメに侵食されているが、『コロコロコミック』などの低学年誌では、むしろそれらの人気に便乗しようとする。
 作品としては『SLAMDUNK』『金田一少年の事件簿』以降ここ2〜3年は、それらほどの大ヒットでなくても、ヒット作と呼べるものがひとつも出ていない。ギャグマンガは不条理4コマより先の地平に進めず、古いスタイルに回帰して質を落とした。青年マンガ、サラリーマン向けマンガも『ナニワ金融道』以降長いことヒットが途絶え、完全に下火。かつては「大人が電車内でマンガを読むな」などと言われたりもしたが、そんな光景もすっかり見なくなった。
 要するにほぼ全てのジャンルがダメで、全滅なのだ。
 話題はもちろんあるが、『ドカベン』など旧作の再開や文庫化、“消えたマンガ家”のルポ、70年代近辺のカルト作品の復刻などと、現状のひどさを裏づけるようなものばかりだ。こうした形で古い名作などは残っていくだろう。マンガとはそういうものを指すようになり、若者文化とは関係なくなるかもしれない。もはやマンガからはブームとなるキャラクター商品も流行語も生まれず、「マンガ○○入門」、マンガ新聞といった企画も姿を消し、新雑誌誌創刊の話題も聞かなくなった。有力な新人もかなり長い間出ていない。またマンガへの「猥褻」「残酷」といった批判や規制、反対運動も見なくなった。10代がマンガ離れしているという致命的な話をよく聞くが、子どもが読んでいないなら、親も反対もしないはずだ。
 それでもマンガは依然、出版界の大きなドル箱であり、売上げの落ち方もまだ穏やかだ。内容がどんどん悪化していても、何か変だなくらいにしか思わず、惰性で買っている人が売上げの激減を押さえているのかもしれない。今なら色々打つ手はあるだろう。このままの状態が数年続けば、さすがにみんな気づくと思う。
WEB Magazine Plaza
http://www.kodansha.co.jp/gokumaga/index-j.html
WEB Shogakukan Online
http://www.shogakukan.co.jp/


[ま-023]
マンガ専門店
まんがせんもんてん
 マンガ専門の新刊書店では「まんがの森」(渋谷、高田馬場、池袋ほか)、神保町の「コミック高岡」が有名。古書店では、水木しげる・松本零士・横山光輝・杉浦茂・楳図かずおの貴重な初期作品を復刻したこともある、神保町の神田古書センター2F「中野書店」が老舗(先頃3Fにも売場を拡大)。
 近年、都市部のマンガ専門店の大型化がとみに進んでいる。新刊書店では、渋谷の三省堂書店コミックステーションや旭屋書店コミック・シティ、神保町の書泉ブックマートコミック売場が、店頭・在庫分含めて6〜8万部を持つ大型店となっている。古書店では、中野・渋谷に拠点を持ち海外進出戦略も着々と進行中という「まんだらけ」が、在庫100万冊という途方もない規模を誇る。B5判厚手で隔月刊の『まんだらけカタログ』は毎号1万部以上を発行し、流通を通して全国で発売。インターネットを通じ、海外からの注文も多いという。
 大規模なマンガ専門店ではクレジットカードが使え、買い物用カートが用意されているところまである。熱心なファンを持つ発行部数の多くないマンガを1冊だけ慈しみながら買う人にも、TVアニメーション化された人気作を最新刊までセットで一気に買う人にも対応できる豊富な品揃えを見せている。マンガファンにとって、マンガの買い方は一種の儀式となるもののはずだが、「カードでボックス買い」する(しかも何故か箱のまま開けない!)人が増えた最近では、こんな考え方ははやらないらしい。
WEB まんだらけホームページ夏号
http://mandarake.co.jp/


[ま-024]
松田錠司
まつだ じょうじ
 現代の日本映画で、女の顔を撮る事のできる貴重な映画監督の一人。高校在学中より8ミリ自主映画を撮り始め、特に「三月」「田舎の法則」は、それぞれ81年、84年のぴあフィルムフェスティバルに入賞、高い評価を受ける。90年には「バタアシ金魚」で劇場用映画デビュー、ブルーリボン新人賞、報知映画賞新人賞を獲得。以降、92年「きらきらひかる」、95年「トイレの花子さん」、97年「私たちが好きだったこと」を監督。
 映画作家としての松岡の個性は、何と言ってもまず、女優の魅せ方にある。自主映画時代から現在まで、松岡の映画にあってはどの女優たちも、思い掛けぬ表情を切り取られる。それがまた、何とも生々しく、魅力的だ(「トイレの花子さん」のように、ヒロインが少女の場合でさえそれは例外ではない)。現代の日本映画では、女を撮る喜びを持つ監督は少なく、その中で松岡は、特異かつ貴重な存在である。更にもう一つの松岡の特徴は、戸外の風景に対する視線である。自主映画時代では田舎の戸外の風景が、商業映画以降は都会のビルやマンションの間に見える木々や土の風景が、艶めかしい空気を伴って、人間ドラマの側に浸食してくる。それはまるで、スクリーンのこちら側にも吹き込んでくるかの印象を与える。この、女の顔と戸外、二つの特徴がない混ぜとなってスクリーンに立ち上るとき、松岡のフィルムは独特の感触を見る者に与えるのだ。

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