[た-001]
大麻堂
たいまどう
 大阪はミナミにある大麻専門店。若者の街アメリカ村のはずれ、約3坪の小さな店がひしめきあう無国籍百貨のうちの一店舗で、無国籍というより無秩序といった感あるグジャグジャの並びにありながら俄然異彩を放つ。店内には大きな大麻の葉が描かれたタペストリーがさがり、棚には吸引パイプ、第三書館一連のマリファナ解放啓蒙書、ドラッグ研究書がズラリと置かれ強く目を引く。しかし違法である喫煙目的のマリファナは当たり前だが売られてはいない。種子のビン詰め、軸に種子がたっぷり入った「大麻ボールペン」など販売しているが、発芽することはないという。
 オーナーの前田耕一氏にはマリファナの無害を説いた著書があり「日本大麻党」を旗揚げし参院選出馬を画策していたこともある。日夜、取締法と闘っているわけだが、この熱意は「ドラッグとしての大麻を解放する」という目的以上に「大麻は日常生活に大いに役立つ」ことを訴えたい、というところから来ているようだ。実際、大麻堂でもっとも売られている商品は大麻を使った衣料品。シャツ、帽子など大麻糸で作られたものは、どれもしなやかで丈夫。また、ハート型をしたチョコレート味の「大麻クッキー」(350円)は、種子のプチプチした食感が面白く、美味しい。大麻が食品として充分通用することを証明している(これはたいへんな人気商品で、オヤツに大麻、がアメリカ村界隈の習慣となっている)。ほか、燃料としての用途もあるとのこと。前田氏にとって大麻の解放はエピキュリアニズムを超えたもののようだ。
WEB 大麻堂
http://www.bekkoame.or.jp/~taimado/


[た-002]
ダウンタウン系
だうんたうんけい
 実質独走状態をキープするお笑いグループ。女性陣が抜け、松本人志、浜田雅功、今田耕司、東野幸司、板尾創路、蔵野孝弘と男所帯になった、このところの『ダウンタンウンのごっつええ感じ』(フジテレビ)の暴走ぶりは目を見張るものがある。一部ファンにとっては時間の無駄であった「チームファイト」も新体制になり終了。  実は、以前の『ごっつ』は、時間ごとの視聴率では「チームファイト」がもっとも高かった。名作(ではあるが、ゴールデンにしては問題作である)「とかげのおっさん」は、そのバーターとして放送できたということだ。宮路年雄や藤岡弘、和田勉といった豪華なゲストを迎えたコーナー群を「チーム・ファイト」目的で見ていた視聴者は、どのような思いで眺めているのだろうか。あまりにも唐突ながら、ずいぶんと力を入れている「エキセントリック少年ボウイ」の展開、『ごっつ』では作家として関わる木村祐一のツボを押さえた登場など今後もますます目が離せない。『ガキの使いやあらへんで』(日本テレビ)も二人のトークはもちろん、ココリコの健闘ぶりや、相変わらず小ワザをきかせた丁寧な作りで、安心して見ることができる。ダウンタウンの凋落ぶりを叫ぶ一部マスコミの論調は、無根拠なバッシング以外の何物でもない。
WEB DownTown Side
http://www.win.or.jp/~kuriko/dt/dt_index.html
WEB DownTown FAQ
http://cgi.din.or.jp/~bon/downtown/
WEB ダウンタウンプロフィール
http://yoshimoto.co.jp/KENSAKU/geinin/dt.html


[た-003]
田口賢司(1961年生)
たぐち・けんじ
 小説家。80年代には、浅田彰やラディカルTVと組んで、テレビ番組としては異例の長さと内容、構成を持つ「TV・EV・BROADCAST」、つくば博でジャンボトロンを使った「TV WAR」等のプロデューサーとして活躍、現在にいたる。当時より、ヘーゲルから松本伊代までを一緒くたにした真面目とも悪ふざけともつかない特異なエッセイ書きとしても知られていたが、80年代の狂騒を奇妙な静謐感をまじえながら再構成した『BOYS DON' T CRY』『センチメンタル・エディケイション』(ともに角川書店)で小説家としての頭角を現す。これらは、いまでは珍しくもなくなったが、パンク、ニューウェイヴ、ブルース、MTVから絶大な影響を受けた世代が生み出した最初の成果であった。最新作の『ラヴリィ』(新潮社)では、形式、描写ともいっそう短く、簡潔となり、詩とも歌詞とも小説とも日記ともつかない言葉の構造体をつくりだした。寡作も手伝ってか話題に乏しいが、活性化しつつある現在の文学界にあっても、これほどの日本語は依然見当たらない。未読の方には強く薦める。
WEB 


[た-004]
田口トモロヲ(1958年生)
たぐち・ともろを
 現代インディペンデント映画の要。劇画家としてデビュー後、パンクバンドのばちかぶりなどで活躍。ケラが主宰する劇団健康の旗揚げに参加し、ワハハ本舗の村松利史プロデュース公演での怪演や、ラジカル・ガジベリビンバ・システム、ナベナベ・フェヌアといった小劇場のフィールドでカルト的な人気を得る。その後、塚本晋也監督の『鉄男』で主役の機械化人間を演じ注目される。『鉄男/BODYHAMMER』でも連続して主役を演じた。『SAEKO』『魔王街/サディスティック・シティ』『夢魔』などで殺し屋、狂人、悪役を演じる一方、テレビでは、『今夜は最高!』などバラエティではコメディ演技も見せ、他にもNHK大河ドラマ『翔ぶが如く』『太平記』、神代辰巳の遺作となった『盗まれた情事』に出演するなど、活動は今も多彩。また、下北沢の飲み屋でブロンソン談義をして意気投合したみうらじゅんと文科系男気ユニット、ザ・ブロンソンズを結成。CDも発売し、テンガロンハットにつけヒゲ姿で学園祭などに出没している。またテレビ東京が若手監督たちを起用して反響を呼んだドラマ『恋、した』にレギュラーのマスター役として出演、自分が演出する『ハイ・スピード3』も放映された。第2回みうらじゅん親友文学賞受賞者としても知られる。
WEB 


[た-005]
竹中直人(1956年生)
たけなか・なおと
 北野武とともに90年代を代表する俳優/監督。サニーサイドとダークサイドの分け隔てのない大活躍ぶりには、まったくもって驚かされるばかりだ。サニーサイドは、当然俳優、監督業。監督として『無能の人』『119』『東京日和』とコンスタントに作品を撮り続けて内外から評価を得つつ、俳優としては『シコふんじゃった。』『ヌードの夜』『EAST MEETS WEST』など、おびただしい数の映画に出演。そしてNHK大河ドラマ『秀吉』主演で国民的俳優の仲間入りを果たすなど、嵐のような活躍ぶりを見せている。ダークサイド(=デタラメサイド)でも『東京イエローページ』『恋のバカンス』といった深夜番組で圧倒的なデタラメぶりを見せつけている。『秀吉』後、初のレギュラーとなった『デカメロン』での相変わらずの暴走ぶりは、「国民的俳優路線転向」を危惧していた多くのファンを安心させた。とはいうものの、『秀吉』(とくに日吉丸時代)でのオーバーかつ野蛮な演技は、『EAST MEETS WEST』での為次郎や、「生肉食ってま〜す」のアウストラロピテクス君ですでに完成していたとも言えるし、「やめてとめてやめてとめて」や必要以上にグルグル回るという定番ギャグを堂々とやるなど、実はそんなに心配していたわけでもなかったりもする。スカパラ、高橋幸宏、坂本龍一とのコラボレイトや、加山雄三トリビュート盤参加、そしてライブで初の共演を果たした音楽活動。演劇では岩松了との「竹中直人の会」を続けるなど、本当に精力的な活動を展開している。
 この一連の活動に共通するのが、すべてにおいて竹中自身の「ただただ好きだからやってる」感がにじみ出ている点である。若大将(ニセ)も、心がチクチクする監督作品も、そして中津川ジャンボリー君も、やりたいからやる。竹中のそんな部分に、ファンは魅力を感じずにいられないのだ。
WEB 


[た-006]
田島一成=TAJIEMAX(1968年生)
tajiemax
 コンパクトカメラや「ワンナワーフォト」などのローファイな画面づくりがトレンドとなっている現在のファッション写真に対し、もっぱら手間のかかるスタジオワークによって斬新なイメージを生み出している写真家。80年代のファッション写真をリードした五味彬のアシスタントを経て、3年間パリに在住。帰国後、『CUTIE』『流行通信』などで、日本人モデルを使った東京発のファッション写真を模索する。ブレイクのきっかけとなったのはアートディレクター信藤三雄(コンテムポラリー・プロダクション)と組んだピチカート・ファイヴのCDジャケットや、タイクーングラフィクスとの仕事。ファッション・ビジュアルの追求に関しては、オタク的なまでの研究熱心さで知られている。
 エディトリアルワーク、広告、カタログなどが主な仕事のフィールド。坂本龍一の写真集『N/Z』(リトルモア)で撮影を担当。広告の代表作に永瀬正敏出演のJ-Pone。現在、ニューヨークに在住。3カ月ごとに東京と往復している。信奉する写真家はイギリスのファッション写真家、ニック・ナイト。
WEB 


[た-007]
田中フミヤ(1972年生)
たなか・ふみや
 日本が世界に誇るインターナショナルDJ。京都府生まれ。小学校6年のとき、セックス・ピストルズに衝撃を受けて音楽にのめり込む。中学時代はパンク・バンドでドラムスを担当、当時からビートにかなりのこだわりを持っていたらしい。18歳でダンス・ミュージックに音楽の未来を予見して、大阪を中心にDJを開始。さらには93年、ミニマル、ハード、ファンキーなクラブ仕様のトラックをコンセプトに、日本初のテクノ/ダンス・レーベル「とれまレコード」を設立、自身の作品を中心にリリースを始める。94年以降は来日DJのほとんどと共演。ジェフ・ミルズ、スティーヴ・ビックネルなど、海外のテクノ・クリエイターたちと親交をあたためる一方、電気グルーヴのツアーにDJとして同行、その名を国内外に浸透させていく。95年には、いよいよ海外でのDJも活発になり、ヨーロッパではDJプレイを“極東のターンテーブル・ウィザード”とも評され、フランスのクラブ誌『CODA』のインターナショナルDJチャートで堂々6位に輝くまでに。同年にはDJミックスCD『I am not a DJ』をリリース、大きな反響を得る。また96年、タンツ・ムジークの山本アキヲとのユニット、フードラムを始動。様々にアプローチを変化させながらアグレッシヴに活動を続けている。
WEB FUMIYA TANAKA PROFILE
http://www.sme.co.jp/Music/Info/SonyTechno/artist/FT-pro.html


[た-008]
谷田一郎(1965年生)
たにだ・いちろう
 CGでモデリングをやると、谷田一郎みたいだといわれてしまうことが多いらしい。そのくらい彼の作品は、強烈で、そして記憶に残ってしまうのである。ストラタやディレクターなどのアプリケーションを完璧に使いこなす彼のビジュアルは、どの作品を見ても、ソフトによる部分ではない独特のセンスがある。「ラフォーレ原宿グランバザール」「トランスコンチネンツ」などの作品にはユーモアがあったり、パワーがある。そのあたりが、巷にはびこるコンピュータ買いましたノリのCG小僧とは全然違うのである。
 CGといっても、そこにはまだまだ感覚の入る込む余裕があるということが、彼の作品からはわかる。日本グラフィック展で数々の賞を受賞しながら、87年ヒロ杉山と近代芸術集団を結成。92年にはフリーになり、現在はJohn and Jane Doe Inc.を主宰。ドローイングやデザイン、CGだけではなくCD-ROMの制作なども手掛けている。なかでも「UNDERGROUND A TO Z」や「POD」などのCD-ROMなどはとても高く評価され、その人気を不動のものにしたといってもいい。またグラフィッカーズのメンバーとしてタイクーン・グラフィックスと数々のCDジャケットを手掛けてもいる。96年には「ラフォーレ原宿グランバザール」で、ADC賞を受賞するなど、谷田の実力は確実に評価されてきているようだ。
WEB 谷田一郎「JANE」
http://beaver.canon-sales.co.jp/Event/Gallery/Digital/tanida/tanida.html


[た-009]
旅、または猿岩石現象
たび、またはさるがんせきげんしょう
 97年、日本人の年間渡航者数が1750万人に達し、数年のうちに2000万人を超えるのではないかと見込まれている。海外旅行は確実に“ブーム”から定着化へと進み、その形態も幅広くなってきている。
 日本人の海外旅行といえば、いわゆる団体旅行が主流だったが、最近では“個人旅行”が増加の一途である。一説によれば、今や日本人の個人旅行者は全体の6割にも達したといわれており、つまり数でいえば1000万人を超えてしまったのである。  といっても、何が“個人旅行”か、ということがここでは問題になる。個人旅行者6割の中には、旅行業界で「F.I.T.」と呼ばれる旅行形態も含まれる。これはForeign Individual Touristの略で、そのまま訳せば“海外個人旅行者”ということになるのだが、業界的には、往復のチケットとホテルの手配を業者が行い、あとは自由行動というパターンであるらしい。要は、現地での団体行動がないというだけなのだが、これも日本では“個人旅行”に含まれる。
 それでは、本来的な個人旅行、つまり出発から帰国まで何もかもを自分でやる旅行者は全体の何割いるかというと、これも2割は存在するという。2割といえば、350万人である。80年代中頃の年間渡航者数が約500万人だったことを考えれば、驚異的な数字だといわざるをえない。しかも、この数字はますます伸びる一方なのである。  いったい何故ここにきて、個人旅行者がかくも増えてきたのだろうか。日本の経済力が上がり、それに連れて「円」が強くなると、相対的に海外での旅行がしやすくなる。そうやって海外旅行をする人が増加し、何度も海外旅行をする人も増えてくると−−これを「リピーター」と呼んだ−−必然的に、添乗員付きの団体旅行に頼らずに、海外旅行ができる人も増えてくる。例えば香港にカバンを買いに行くのに、いちいち添乗員付きの団体旅行に参加する必要はない。適当なガイドブックがあれば、それだけで充分であるということになる。単純にいえばそうやって団体旅行者がリピーターになり、そしてF.I.T.へと変身を遂げていったのである。
 その一方で、本来的な個人旅行者も増えていった。ここでF.I.T.とあえて区別するために彼らのことを「バックパッカー」と呼ぶことにする。バックパッカーとは、本来リュックを背に山歩きをする人々のことを指した言葉だが、現在では山だけでなくをする人のことも指すようになった。しかし、リュックを背負っているかどうかは個人旅行している場合も、総じてバックパッカーと呼ぶのである。「パッカー」ともいう。
 バックパッカーは、日本だけでなく、世界中でここ数年急速に増えつつある。もともと欧米では早くからこういった種類の旅行者たちが世界中をしてまわっていた。それが一般化しはじめたのは、オーストラリアのトニー・ウィラー(Tony Wheeler)が『Across Asia on the Cheap』というガイドブックを発売してからである。このガイドブックは大ヒットし、黄色い表紙だったことから“イエロー・ブック”と呼ばれて、欧米人旅行者の誰も彼もがこの本を持ってアジアをしはじめた。これが70年代初め頃のことだ。
 日本でもインド・フリークがいて、小さな出版社からバックパッカー向けのインドのガイドブックなどが出ていたが、それは大きな注目を浴びるにはいたらなかった。『オデッセイ』という日本で初めてのバックパッカー向け雑誌もあったが、時代がまだバックパッカーを生んでいなかった。
 そして、70年代が終わる頃、ダイヤモンド社が『地球の歩き方』シリーズを発売しはじめる。この本の出現によって日本人バックパッカーが大いに増産されたことは間違いない。パスポートの取り方、列車の予約方法、安い宿の在処などを親切丁寧に教えた最初のガイドブックであり、海外とは危険なところであるという認識しかなかった日本人に、やさしく、説得するように腕を貸し与えたのである。
 『地球の歩き方』は当たった。次々にいろいろな国のガイドが出版され、欧米人がトニー・ウィラーの本を持っているように、日本人旅行者は誰も彼もが『歩き方』を持っているといわれるようになる。やがてそれが当たり前になると、旅行者たちは間違いを指摘して『地球の迷い方』だと揶揄するようにさえなった。それほど『歩き方』は旅行者の間で一般化してしまったのである。
 経済的な条件も整い、情報も入るようになって、人々はバックパッカーとなって世界をしはじめた。それにともなって旅行記も続々と出版されるようになり、それまで作家や学者、新聞記者などの手になる紀行しかなかったマイナーなジャンルに、旅行者自らが自分たちの立場から書き始め、そしてそれらは旅行者や旅行者予備軍の支持を得たのである。
 かつて旅行記は、日本人が海外で見聞したことを報告するという役目を負わされていた。小田実の『何でも見てやろう』(講談社文庫)はその代表例だが、旅行者は常に日本人代表であるという運命にあった。
 しかし、日本人の6人に1人が海外旅行をする時代になると、すでに旅行者はその役割から解き放たれ、極めて個人的な理由からを始めるようになるのである。そして、旅行記も、旅先のことではなく、をする自分へと興味が向いていく。
 そういった旅行記の代表作が、小林紀晴の『アジアン・ジャパニーズ』(情報センター出版局)だろう。この本で描かれるのは、アジアそのものではなく、そこををする日本人旅行者の姿である。彼らが、旅先で何をし、何を考え、どうやって生きようとしているのか。この本は、日本で「自分とは何か」という命題に苦しむ若者たちに圧倒的支持を受けた。そこに描かれた旅行者たちの姿と、悩み苦しむ自分とを重ね合わせたのである。
 同じことは、やがて登場する珍奇な旅行記『猿岩石日記』にもいえる。猿岩石というまったく無名の若手タレント2人組を、ユーラシア・ヒッチハイク旅行という舞台にのせてテレビ番組化したところ大人気を博した。それを単行本化した『猿岩石日記』(日本テレビ)も100万部を突破するという旅行記としては未曾有の大ヒットを記録し、ここにいたってバックパッカーたちのは「猿岩石現象」とさえいわれるようになった。
 小林の『アジアン・ジャパニーズ』と形は違うが、猿岩石も、極めて脆弱な日本人旅行者の代表として描かれている。小林の描く旅行者たちは「自分とは何か」を常に自問するが、猿岩石の“”にはそれすらなく、ひたすら自分の無知と弱さをさらけ出しながら懸命にテレビ用のステージをこなしていく。
 テレビ番組のために仕組まれた猿岩石の「」が多くの若者にうけたのは、猿岩石自身の懸命な振る舞い−−つまりは、夢中になる何かがそこにあるという“輝き”と、脆弱な主人公の“苦悩と成長の物語”であり、その部分では小林の作品に登場する旅行者像へ共感が集まったことと共通している。
 しかし、『猿岩石日記』は、仕組まれた「」の背景を問題にせず、それが現実であるかどうかをまったく問わないのが、今の日本の若者たちのリアリティであることを見事に証明してみせた作品であるといえる。
 日本の息詰まるような閉塞感、何もかもが過剰なモノ社会、リアリティの欠如したバーチャル文化。よくいわれるようなこれらの状況が、若者たちを海外へ押し出しているのだとすれば、そこで彼らはどのようなリアリティを獲得できるのだろうか。  少なくとも日本の個人旅行史は始まったばかりであり、その答えまだ出ていない。 (蔵前仁一)
WEB 


[た-010]
ダービースタリオン
derby stalion
 競馬というオヤジ文化をティーンエイジャーのポップカルチャーに昇華させた革新的ゲーム。馬券を買って小遣いを稼ぐというオヤジ的文法ではなく、馬主として競馬に参戦するという夢を電子上にリアルにシミュレートした点が大きなポイント。膨大な種馬の血統データの交配により、自分だけのサラブレッドを生み出せるというゲーム性が爆発的な人気を呼び、小学生から高校生までに競馬ブームを巻き起こした。自分が育てたサラブレットはパスワードを交換することによって他人の馬との競争が可能。すでにパソコン通信上では“馬主”達が“電子馬”データを交換するためのフォーラムが白熱しており、このゲームを中心に“もうひとつのGT”が定期的に開催されている。スーパーファミコン用ゲームとして発売されて以来、現在はPSにも移植されているが、依然として根強い人気を維持している。
WEB Weekly ASCII SOFT
http://www.ascii.co.jp/ascii/et/main.html
WEB VumaClub
http://www.v-net.ne.jp/~akidai/
WEB □◇ DERBY STALLION ROOM
http://www.prophet.ne.jp/ogawa1/derby/index.html


[た-011]
ダブルネーム
double name
 もともとはアメリカやヨーロッパの一流ショップが始めたもの。主にバードルフグッドマンやフレッド・シーガルといった歴史のあるセレクトショップが、メーカーやブランドに特別に注文して作らせた商品のことで、基本的にメーカーを持たない販売店が作る。とは言え、ある程度のロット数が揃わないとメーカー側は別注に応じないのが通常だが、最近の日本ではショップ側が市場への影響力を持ち始めたため、最低限のロット数で発注することも可能になった。当然、数が限られてくるため、限定品となり、稀少価値が上がる。代表的なものは、グッドイナフの吉田カバン、ステューシー、ユナイテッドアローズのGショックなど。もっと小さな規模での組み合わせも多い。
WEB 


[た-012]
たまごっち
たまごっち
 バンダイから発売された電子ペット。それまで主流だった『テトリン』等のパズル系・携帯ミニゲームと一線を画す、「育てる」という新鮮な概念を持ったソフト・ハード一体型ゲームとして96年11月23日に発売された。発売と同時に女子高生達の口コミで急速に人気が高まり、即在庫品切れ、生産待ち状態の大ヒットとなる。そのゲームシステムは、タマゴから生まれた赤ちゃんがお腹が空いたと言うならゴハンやおやつをあげ、ウンコをしたら始末をし、ワガママを言うなら叱り、時にはごきげんを取るために遊んであげるというまさに育児そのものであり、不自由なまでにユーザーの実生活に介入してくるその呼び出し音の拘束は、「私を必要としてるモノがいる」的な安堵感を刺激しつつ、日常に妙な緊張感を与えたのだった。
 その後「てんしっちのたまごっち」など続々とニューバージョンを発表しているが、毎回発売日には徹夜組も含む長い列ができるのが話題になる。97年6月には欧米でも発売され、そのブームはいよいよ国際レベルにまで達した。ちなみにバンダイ会長の山科誠は、この「たまごっち」が“マルチメディア時代の有力なインターフェイスになる”という趣旨の強気な発言をしている。確かにPC版、ゲームボーイ版やPHSとの合体版の「たまごっち」ではあるが、マルチメディア時代のインターフェイスという方向性には、若干疑問が残る。
WEB たまごっち情報
http://www.bandai.co.jp/tam/tac/tamhome.htm
WEB つぼ道場
http://www.big.or.jp/~tsubo/menu.html


[た-013]
Dumb Type
dumb type
 身体表現とテクノロジーをステージで駆使するマルチメディア・パフォーマンス・グループ。ダンス、映像、音響、プログラミングなど各専門分野のアーティストによって、84年に結成されて以来ずっと京都を拠点に活動を続けているが、海外ツアー公演によって世界的にも高く評価されている。肥大化した情報ネットワークの中で意識を拡張しながらも生身の肉体に閉じ込められた現代人の姿を象徴的に提示した作品「pH」(90-93年)、HIVをモチーフに情報のフィールドを肉体の内側にまで掘り下げた「S/N」(94年)など、従来は哲学、社会学、情報工学、医学などに分断されていた領域を、芸術的な感性で再編成する。中心メンバーとして活躍した古橋悌二はゲイであることをカミング・アウトしたのち、95年に35歳で急逝。80年代末に関西オルタナティブ・シーンを沸かせたダイヤモンド・ナイトの伝説のドラッグクィーンとしても記憶に残る異才だった。その後活動は他のメンバーによって継続され、97年の最新作「OR」による新たな展開が注目される。
WEB who's who/ダム・タイプ
http://www.st.rim.or.jp/~haruki/nmp/who/list/list29.html
WEB Dumb Type S/N Internet Version.
http://dt.ntticc.or.jp/


[た-014]
ダメなひと
だめなひと
 アイドル・マニアの最終形態。追っかけ、親衛隊、カメラ小僧などと細分化されてきたアイドル・ファンも、アイドルそのものの衰退・ボーダーレス化に伴い、様々に変化していったが、ダメなひとは、その中でもっとも「行き着いてしまった」人たち。基本的には、従来のアイドル・ファンとは異なる、正統的なノリから外れた応援活動や楽しみ方をする人たちを指す。例えば、イベントでアイドルの本名や実年齢を叫んだり、好きでもないアイドルに対して、さも自分がファンであるかのような行動を取ってみたり、アイドルたちが隠したがっている過去を掘り起こし、本人にぶつけることでリアクションを楽しむなどなど、実に愛のない行動を好む。ダメなひとが生まれたのは東京パフォーマンスドール(90-96年)のデビュー時で、当初は「外道」と呼ばれていたが、制服向上委員会(92年-)の登場により、ダメなひとという呼び名が定着。外道もダメなひとも、己の言動を自ら蔑んで名乗ったもので、自らを蔑みつつも「でも、やるんだよ」と振り返らなくなったところが、上記のような過剰な行動をとる所以である。
WEB 


[た-015]
だめ連
だめれん
 ダメな人どうしが集まって交流し、トークし合うことを目的に東京・中野駅北口の自転車置き場などに集合する一群。事実上の代表者は神長恒一で、彼は自宅の電話番号を「だめ連イベントホットライン」として、自らばらまくミニコミ『にんげんかいほう』で公開し、招集を呼びかけている。神長は「ダメな人がダメな人なりに生きていけるようなネットワーク作りを目指す」とし、人生を限定する「ハク(をつけること)」「うだつ(のあがらない状態を避けること)」を抑圧的なものとして、それらからのラジカルな解放を訴えている。しかし、だめ連は運動体ではなく、セルフ・ヘルプ・グループとしての気負いもない。「ダメをこじらせた人」の選択肢が新興宗教、自己開発セミナー、蒸発、自殺などでは厳しすぎるとし、オルタナティヴな方法の一つとしてだめ連への参加が呼びかけられるだけだ。  現在30代の神長自身、大学卒業後に休みの多い大会社に就職するも10カ月しか続かず、「平日の昼間にぶらぶらしていると遊んでくれる相手がない」という発見から、就職しないで生きることと「ダメな人の烙印を押される」悲惨な人生がセットで語られることへの懐疑が生まれたという。「ダメ」を手がかりに人と議論を交わしながらものを考え、生きていく姿勢こそ「解決のない解決策」なのかもしれない、と神長は書いている。だめ連関係のミニコミ、自主出版物は、新宿・模索舎、中野・タコシェなどで入手できる。メンズリブ東京との親交もある。
WEB だめ連ホームページ
http://www.bekkoame.or.jp/~tm-asano/dameren/dameren.html


[た-016]
タモリ倶楽部
たもりくらぶ
 『笑っていいとも!』(フジ)で昼の顔となったタモリによる深夜番組。82年10月のスタート以来、タモリが肩の力を抜き(通常比)、淡々と番組を進行。深夜低予算番組のひな形的番組でもある。制作プロのハウフルスによる見事な編集と、隙のない選曲(お歳暮特集のBGMが「聖母たちのララバイ」など)、武田広によるソフィスティケイトなナレーションの絶妙さは相変わらず。廃盤ブームを築いた「廃盤アワー」や、黎明期のメイン作家であった景山民夫が大久保林清名義で脚本を手掛けた昼メロパロディ「愛のさざなみ」など名物コーナーも多数輩出。現在は特集部分と「空耳アワー」の二部構成。「空耳」は基本的に『鶴光のオールナイトニッポン』の人気コーナー「この歌はこんなふうに聞こえる」の焼き直しであるが、ハウフルスが『旧ボキャ天』でも見せた「短い時間の中でストーリー性を持たせたVTR効果」で、ネタのおもしろさを増幅させ、人気コーナーとなっている。
WEB 空耳アワー・コレクション
http://www2h.meshnet.or.jp/~sugano/soramimi/


[た-017]
タラソテラピー
thalassotherapy
 海洋療法。ヨーロッパで古くから行われてきた、海水、海藻、海泥などを用いる療法。明治時代、日本に海水浴という行為が紹介されたときも、まずは療法、健康法として推奨されており、つまり海水浴もタラソテラピーである。最近では、アトピーなどへの効果によっても関心が高まっているが、もっともよくタラソテラピーという言葉が聞かれるのは、おもに美容法としてである。海藻や海泥のパックや海水を使ったジェット・シャワーや気泡風呂などが、エステティック・サロンに取り入れられている。話題になったのは、87年頃からで、93年には伊勢志摩に、日本初の本格的なタラソテラピー・センター「タラサ志摩」がオープンしている。海辺のリゾートで遊びながらタラソテラピーのエステを受けるという優雅な施設は、バブル時代の余勢で生まれたのだろうが、優雅よりもリラックスを求める昨今でも、タラソテラピーは、気持ちよくてきれいになれるという、女性雑誌のお好みのテーマである。
WEB 日本タラソテラピスト学院
http://careerdesign.adquick.co.jp/thalasso/


[た-018]
多和田葉子(1960年生)
たわだ・ようこ
 小説家。在外で多言語併用の作家の活躍が目立つようになったのが89年の冷戦構造崩壊以後のことであるのは偶然ではない。89年の冷戦崩壊は短期的には68年以後の自閉による非歴史的安定に楔を打ち込むものであり、当然、この間に書かれてきた文学のあり方そのものに対する見直しを含む。したがってそのフォーマットが、冷戦崩壊によって露呈した歴史という「外部」、文学でいえば「他者」としての外国語や外国体験と擦り合わされるかたちで批判にさらされたのは当然といえる。長くドイツに滞在し、商社、通訳、家庭教師、大学助手での経験を通じ、ドイツ語と母国語との弁別から自分の言葉を再発見していかなければならなかった多和田は、ドイツ語固有の表現や日本語固有の表現といった自閉からはみ出すように、ドイツ語を(直訳した)日本語で読んでいるような奇妙に厳格な日本語を生み出した。それは安易な文体上の実験ではありえない。水村美苗の作品と同様、多和田のもまた、外国語との不自然な共存(からの翻訳)をかろうじて内面化したシステムが現在の「日本語」であることを、その起源の反復を通じてべつのかたちに転移させている。「聖女伝説」(太田出版)はその美しくもグロテスクな成果。
WEB KAWADE Books
http://www.bnn.co.jp/KAWADE/01/1-188.html


[た-019]
タワーレコード
tower records
 アメリカ資本ゆえのケタ外れな巨大さと徹底した王道ぶりを誇る、輸入盤チェーン業界の全日本プロレス。97年9月現在、アメリカに96店舗、日本に41店舗を擁する。元々は創始者ラッセル・ソロモン氏が「タワーシアター」なる映画館内で父親が経営していた薬局に、なぜか手持ちのレコードを勝手に置いたことに歴史は始まったらしい。あえて日本風に喩えるなら、突然ゲーム開発を始めたラーメン屋「なんでんかんでん」が、なぜか大成功したみたいなものだろうか。
 60年にカリフォルニア州サクラメントに1号店をオープンさせてアメリカ本国でキッチリ地盤を固めた後、79年に日本上陸を果たし、81年には聖地・渋谷へと進出。そして95年には文字通り“レコード塔”とでもいうべき売場面積約1500坪、商品在庫60万枚という世界一巨大な店舗(それまでのギネス記録はHMVオックスフォード店の1033坪)へと渋谷店を生まれ変わらせたのだ。さらに、その常識外れな巨大さと王道ぶりを訴えるべく、イメージキャラクターに世界の巨人・ジャイアント馬場(全日本プロレス)を起用。ジャンルの細分化が進む渋谷輸入盤業界においてひたすら全日イズムを貫き、いまも孤高の存在感を保ち続けている。なお、クラシックの在庫数も世界一を誇り、洋書の充実ぶりも圧巻。自ら発行するフリーペーパー『bounce』も、下手な音楽誌より明らかに面白いほどの出来である。
WEB TOWER RECORDS−@TOWER.JP−
http://www.towerrecords.co.jp/


[た-020]
ダンス
dance
 現在世界は人類史上最大、未曾有のダンスブームを迎えている。  80年代末にヨーロッパで火がつき、アメリカ、カナダ、オーストラリアなど今も世界中に広がり続けるこのブームは、先進諸国だけでなく、インド、イスラエル、南アフリカなどにも及んでいる。ひとつのパーティーにも何万人もの人が集まることもあり、常設のダンスホール(クラブ)ではなく、野外の空地などのイレギュラーな場所で行うことも多い。こうした“レイヴ”が、このブームの象徴となっている。今年はついに100万人のレイヴも開かれ、その勢いは衰える気配がない。普通の神経をしていれば、これが何か注目すべき動きであることに気づくだろう。ダンスはたいてい特定のダンス音楽とセットになっているが、これはシンセサイザー音と打ち込みのリズムから成る“テクノ・ミュージック”が支えている。
 ただ史上最大とは言っても、これまでにたいしたダンスのブームがなかったとも言える。20世紀前半に同じくヨーロッパではやりだして世界に広がったタンゴ・ブームが大きかったとされるが、やはり規模的には比較にならないようだ。日本なら、大戦後のジルバ、70年代のディスコ・ブーム、90年代初頭のジュリアナ東京シーンの加熱あたりが挙げられるだろう。なかでもジュリアナ・ブームは、地方に拡散したり東京ドームで大パーティーが開かれるなど、最大のものだったと言えるかもしれない。それでもやはり、ダンスホールのなかに納まっていたというだけで、もう程度が知れる。
 これらのブームが、本当にダンスのブームだったのかどうかさえ怪しい。会場からして、明治時代の鹿鳴館に始まり、70年代のディスコもジュリアナ東京も“クラブ”も、実は踊る場所というより、社交場、溜り場、あるいは特殊な人たちのサロンとして機能していた。踊りは、服装も含めて”見せる”というパフォーマンス的な意味合いが強く、踊る快感とは縁遠かった。ダンスとはそういうものだとも思われていたはずだ。

 人間は、呼吸や歩行をするように、踊る生きものだ。4万年もある人類の歴史を見ても、どんな地域を見ても、エスキモーもインディアンも、盛んかそうでないかの違いはあれ、誰もが踊っている。そうして気持ちよさを味わい、生を豊かにしてきた。  しかし最近になって、踊らない人種が登場した。「現代人」だ。踊りを見るのはいいが、現代人は踊る人を舞台の上にあげ、あとの全員はそれをじっと“観賞”するという位置関係を少しずつ固定化させていった。その結果ダンスは奇形化し、バレエを例に取ると、爪先で立ったり足を高く上げたりといった普通の人にはできないアクロバティックな動きを競いだし、より不自然な曲芸を目指して辛い訓練をするようになる。見る側も、それを“採点”したり、細コマ々ゴマとした基準や規則を体系化したりと、同じく奇形化していく。ダンスは視線を前提にした「見る」か「見せる」ものになり、もっとも重要な踊る快感が忘れ去られた。こうして「普通の人は踊らない」という現状に至ったのだ。「踊るのは恥ずかしい」という感覚も一般的になり、こう言う自分もまた例外ではなかった。
 そこにこのダンスブームが来た。しかも、そのダンスがこうした奇形ダンスからもっともかけ離れた、それはそれでとんでもなく極端なものだったのだ。
 そもそもこのダンスに名前がない。踊りに関する決まりも一切ない。希な例だ。ただ飛び跳ねている人の横で、別の人が体をユラユラ横に揺すっていたりする。10年たってもやはり名前は付かないようだ。そもそも10年続いたら、もう“ブーム”でもない。イギリスなどではすでに生活の一部になっているようにも見える。
 また、ここまで「見せる」という要素が欠落したダンスも珍しい。

 つまりこれは、踊る快感以外は何も目指さないという究極のダンスだったのだ。それが黒船のように突然やって来て、こんな状況とぶつかった。当然かなりの変化が起きる。このダンスは我々に何をもたらしたのだろうか?
 言うまでもなく最大のものは、気持ちよさ、初めて味わった踊ることの快感だ。その他は“おまけ”みたいなものだが、それがまた結構いいので挙げてみる。

 まずダンスホールの様子が一変した。基本的に各々が見せるためでなく自分のためだけに踊るので、ステージ的な場所もスポットライトも消え、会場は真っ暗で、視線はあまり張りめぐらされない。人間関係や会話の重要性も下がり、服装も飾りよりは動きやすさや、素材の吸湿性といった機能面に目が移りがちになる。野外のパーティーともなると山道を登ったりテントで寝るなど野外生活を送ることになり、防寒性なども含め服の機能はより重要となる。さらにすぐに汚れたり濡れたりするので、高価な服などはあまりそぐわなくなってくる。イギリスでは踊りに来る若者の間で「ドレス・ダウン!」が合い言葉になったそうだ。こうしてダンス会場はより気楽というか、堅苦しくない雰囲気に包まれた。大衆化した、とも言える。
 それがそこに通う若者や、ひいては若者全般の価値観にまで何らかの影響を及ぼしている可能性は充分にある。

 ここで“エクスタシー(E)”について触れておく。ヨーロッパでこのダンスブームを下から支えたのがこの違法薬物で、ダンスとともに爆発的に広まっていった。これを飲めば誰もが多幸感に包まれ、解放的な気分になり、バッドトリップする心配もなく、効きめもソフトで、会話もできないほどブッ飛ぶようなことはまずないという。安全性もかなり知られてきて、広く気軽に飲まれるようになっているのだ。売買のされかたにしても、そのオープンさを見ると、すでに合法と違法の中間くらいまでは来ているようにも見える。
 日本はE抜きでダンスだけ輸入する形になったため、当初はヨーロッパのようには広まらないのではないかと危惧されたりもしたが、どうやらあまり関係なかったようだ。踊る時にいつもドラッグをやる民族などむしろ珍しいのだから、もともと心配はいらなかったわけだが。
 さて、イギリスのエクスタシーダンス文化の研究家、ニコラス・サンダースは以下のような注目すべき発言をしている。「エクスタシーは今の若い世代にある共通の動機を与えている。エクスタシーをとっていない人にまでね。それぐらいエクスタシーは広く浸透しているし、よりオープンハートな振舞い方へ若者を向かわせていると思う」(『Rave Traveller/踊る旅人』清野栄一著・太田出版より)。
 もともとイギリスではダンスとEを切り離して考えることが難しいため、これはどちらの効果とも言いがたく、あるいは「エクスタシー」を「ダンス」に置き換えることも可能だろう。確かにEを食べ「イエーイ!」などと言って踊っていれば、だんだんオープンハートな人間になってくるに違いない。またそんなヤツらがまわりに溢れてきたら、気難しい顔をしているのもバカバカしくなるし、気取った態度もそぐわないだろう。そう言えばイギリスやヨーロッパでは、“スノッブな若者文化”があまり流行らなくなってきているかもしれない。
 では日本はどうか。ダンステクノのシーンでは、ある程度そうした傾向が見て取れるし、少なくとも自分はまさにそのとおりに変わってきた。“オープンハート”をよしとする風潮ならシーン全般に行き渡っている。影響力のある人気DJが、プレイ中に派手に動いたりガッツポーズしたりする。シーンが大きくなれば、この傾向も広まるだろう。

 このダンスはまた徹底的に“無意味”でもある。6時間、10時間と、くたくたになるまで踊り続けても、モノ一つ産み出すどころか、一歩も前に進まないのだ。同じ時間走っていればどれだけためになったか、などと考えてしまいがちだ。実際に「不毛」と言って踊るのを毛嫌いする人もいる。
 近代以降の社会は、生産的でないもの、そうした方向性で意味づけできないものを排除したり、ことさらダメなものと見なしてきた。怠惰、昼寝、キチガイなどはそれだろう(怠惰な昼寝してるキチガイなど大変だ。俺か)。ダンスなど排除されて当然だ。「散歩」は微妙な感じで認めても、「真夜中に空地をぐるぐる何時間も歩き回る散歩」になるともう意味づけ不能なので認めない。実際にそんな人がいたら、我々のにインプットされたプログラムが即座に「異常。排除シロ」と作動する(このプログラムは、ひっきりなしに作動しているのだが)。しかしレイヴで踊るのは、その異常な散歩を大勢でやっているようなものではある。それがブームとは、どういうことなのか?
 簡単な話だ。もともと意味深いことを、知らぬ間に無意味と思い込んで、あるいは思い込まされていただけなのだ。しばらく前から、ゲームなど、よく考えれば相当無意味なことも流行するようになってきた。「気持ちいい」が大きな価値基準になってきたと言われたりするが、ダンスは今後もそれを推し進めるだろう。

 機械的反復行為、つまり延々と続く同じことの繰り返しは、単調、不毛、退屈、辛い、うんざり、といったマイナスのイメージを持たれがちだ。しかし、反復ビートと同じフレーズのリフレインを特徴とするテクノなど、まさに延々と続く同じことの繰り返しである。また、それに合わせて踊り続ける自分の動作も、機械的反復以外の何ものでもない。それを気持ちよく感じていることに気づけば、そうした一面的な見方が修正されるはずだ。同じく延々と続く繰り返し作業そのものである日常生活も、退屈なだけではないように見えてくる。世界観が180度変わったりすることもある。

 テクノは他の音楽ジャンルと混ざり合い、「ダンス音楽化」を推し進めている。ロックとの間には“インディー・ダンス”“デジタル・ロック”といったダンス色の濃い分野も生まれた。ポップスもテクノの手法を取り入れてすっかりダンス音楽化し(小室哲哉は以前trfの曲をテクノと言っていた)、カラオケボックスまで新たなダンスホールにしている。それは「社会全体のダンス化」も推進するのだ。

 「現代社会」はうまくやったように見えた。全員を生産に駆り立て、それに反するものを排除し、すべてのにさりげなくそのプログラムを埋め、すべての身体を飼い馴らした。ダンスは排除どころか、そのための道具にまでなった。多くの人にとって唯一のダンス体験は、運動会の「全校ダンス、オクラホマミキサー」だったりする。“ヤツらに踊らされた”わけだ。ビシッと揃うまで何度も練習させられもした。
 “リズム”もいいように使われた(本来ばらばらな全体を統制する格好の道具なのだ)。軍隊や刑務所にまけないほど行進しまくったし、体操もきれいに並んでしてビシッと揃えた。関係ないが整列の時の「休め!」なんてもう最高だ。もちろん全員揃って、あの姿勢でビシッと休んだ。もちろん疑問なんか感じない。まったく完璧なシステムだ。学校に送り込み、“教育”のフリをしつつ、強烈なドリルをかます(【drill】訓練、練兵〈軍〉、反復練習、穴あけ機。例:夏休みのドリル)。誰一人としてそれを逃れることができない。それを「当たり前」とか「楽しい」と思いこむような仕掛けもある。食らわす側でさえ、自分がやっていることの大部分が単なるドリルであることに気づかない。フラフラ動きださずビシッと立っているように、動くなら全員ビシッと揃って動くようにドリル、ドリル。みんなやられた。満員電車にもへこたれない、従順な体にしてもらった。ただしダンスには向かない体だが。
 しかも、こんな見えない仕掛けがそこらじゅうにある。
 まさに完璧に見えた。なぜここまで“反社会的”なダンスが台頭できたのか不思議なほどだ。もちろん今でも力技や懐柔策を駆使して押さえ込もうとはしている。ダンスはさらに広がろうとする。そのどちらが自然な動きなのかは、もうとっくにわかっているが。踊ることに抵抗を感じる人は依然多数派で、40歳以上の人なんかは、もう死ぬまで踊らないかもしれない。それでも少しずつ、抵抗なく踊れる普通の状態に戻っていくだろう。
 時には、ダンス会場にまで自発的ドリルが生まれているように見えたりする。例えば「踊っている時は全員DJの方を向く」という暗黙のルールがあるようにも見える。舞台上のDJに向かって全員が一斉に手を上げると、ナチス党大会のようでもある。制服みたいなものができているような気がしたこともあった。視線による監視や排除もある。けれども手を上げるのも、DJのほうを向くのも、似た服を着るのも、それぞれが勝手にやってることで、ドリルとは違う。監視は人間の集団には必ずあるし、大した程度でもない。
 このムーブメントは、息苦しさに耐えかねた我々が誰とはなく起こした、システムに対する反乱なのかもしれない。もっと多くの人が踊りだして、さらにこの動きが広がればいい。世界を覆い尽くすまで続けばいい。そんなことすべてが、システムの仕掛けのような気もチラチラとする。が、自分が楽に気持ちよく生きられるなら、なんでもいい。列挙したダンスの効果すべてがこの社会に定着したら、どんなにいいだろう。それが社会や他の人のためになるかどうかは知らない。しかし自分のためになることだけは、ハッキリとわかる。しかし、一度試しに踊ってみることは、ぜひお薦めしたい。やはり踊らないのは、もったいない気がするので。(鶴見済)
WEB 


[た-021]
ダンスシーン
dance scene
 80年代がいわゆる小劇場の時代だったとすれば、90年代はダンスのインディーズ時代といえよう。一見、なよやかに見えるダンスの世界だが、実は、日舞と同様に徒弟制が強く、アートというよりこれまでは“お稽古”色が濃かった。ところが90年代に入り、流派に関係ない集団が、難民のごとく80年代の小劇場が開拓したフィールドを活動の場にしはじめ、新しい表現に貪欲な観客に受け入れられたのである。
 その先鞭をつけたのがNest。早稲田大学でパンクバンドをやっていたという兄ちゃんたちの集団なのだが、巨大なジャングルジムのようにイントレを組んだ会場は舞台と客席の区別もなくオールスタンディング。大音響のノイズの中を飛んだり走ったりという猛スピードで踊って、パンクというか野生の猿状態の衝撃デビューを果たし、踊りがヘタでもダンスカンパニーを旗揚げできることを実証。その後、現代美術や映像のアーティストらとコラボレーションをとりつつ、独自のパフォーマンス路線を展開している。また、日芸の舞踊科で同級生だった3人の女の子たちが共同で振付を行っている珍しいキノコ舞踊団は、フォーサイスやピナ・バウシュなどの振り付けを引用しながら、3人の感性によって反芻された引用は、インドから日本に伝わり独自の味覚へと昇華したカレーのように、引用を超越し、かわいらしくポップな味を出している。さらに井手茂太率いるイデビアン・クルーでは、ダンサーは男女を問わず、黒のレオタードの上から筆文字で名前を入れたブリーフを着用し、日常の滑稽な仕草や妙なシチュエーションを取り入れた、およそダンスらしくない脱力系パフォーマンスを展開中である。本人は笑いを意図しているわけではないというが、観る人にくすぐったい気持ちを抱かせているのは確かだ。ほかにも、ヨーロッパ公演の続いていた勅使川原三郎が帰朝して立て続けに公演を打ったり、クマテツことロイヤル・バレエ団の熊川哲也の来日公演などで新旧ともに話題は豊富なダンスシーンである。
WEB 


[た-022]
探偵!ナイトスクープ
たんていないとすくーぷ
 上岡龍太郎を探偵局長とする探偵達が、視聴者からのスカタンな依頼を調査。ことの真相を究明すべく東奔西走する様子を番組にした、いまだ関西で驚異的視聴率を稼ぎだしている朝日放送のドル箱バラエティ。この番組が関西において始まった時に画期的だったのは、ちゃんと手間をかけたロケをした点にある。今も昔も関西は「タレントがセコいトークセットでおもろいこと喋り倒しはる」番組が主流だ。ロケVTRがあったとしても「笑福亭松之助が八木小織とおいしいお好み焼きをただ食べる」ようなディレクターの演出がまったく存在しないようなものばかり。だから志ある業界人はみんな上京。今や東京の放送業界は関西人だらけの有様だ。「アイデアに金を払わん」土地だけに、とくに放送作家の頭脳流出は激しい。知りあいの大阪の作家がプロデューサーにマジでこう言われたそうだ。「アイデア1本採用ごとに8000円。完全出来高制でどやっ!?」。投稿職人やないっちゅーねん、正味の話が!
WEB 探偵!ナイトスクープ
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/Atsushi.Fujiwara/knight.htm


[た-023]
高橋洋
たかはし ひろし
 “魔”が現れる物語を扱うとき一際輝くが、それ以上に、キャラクターを行動で描写することができる貴重な脚本家。
 8ミリ自主映画として「夜は千の目を持つ」「ハーケンクロイツの男」等を監督。 90年に、森崎東監督のテレフィーチャー「離婚・恐婚・連婚」にて脚本家デビュー。
 高橋のシナリオ群を一覧すると、ホラー作品が目立つ。テレビ「本当にあった恐い話」中の「幽霊の住む旅館」「呪われた人形」(中田秀夫監督)、近年最も恐いホラーと評判の「女優霊」(中田秀雄監督)等々。自主映画時代から顕著なこの“魔”への志向は、単なる恐怖/猟奇趣味ではない。高橋にとって“魔”は、人間たちのドラマを蹂躙する“世界”の一端として現れる。“世界”は登場人物にとっての脅威であり、脅威を直接的に恐怖として表現するジャンルが、ホラーなのだ。そして“世界”は、時に運命、時に不条理へと形を変えて、メロドラマ、コメディなどのジャンルでも人間ドラマを脅かすのだ。
 このように、高橋にとっては、人間のドラマのみが物語の絶対真理ではなく、故に人物は醒めた眼で見つめられる。だから台詞に溺れた人物表現を廃し、行動で人物を描写し得るのだ。これこそ、忘れられがちな事だが、映画における人物描写の基本である。これを最も極めたのが「露出狂の女」(塩田明彦監督)、「復讐/運命の訪問者」(黒沢清監督)であり、ホラー以外の高橋の代表作である。

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