[け-001]
ゲイ映画祭
げいえいがさい
 ゲイ(ゲイウーマン=レズビアンを含む)の作品ばかりを集めて開催される大規模な映画祭であり、ゲイ・ネットワークを生かした日本最大のイベント。映画でゲイを扱ったものは星の数ほどある。が、「ゲイの映画」と言い切っている作品にはほとんどお目にかからない。宣伝文句や批評、解説の多くは「ゲイ」の部分を飛び越え、いきなり「性別を超えた真実の愛の物語」「人間愛を高らかに謳う……」になってしまう。「男同士の愛と友情を描く……」ならまだマシな方だ。こうした「ゲイ」の部分を敢えて避けようとする心理は、ホモフォビア(同性愛嫌悪)にほかならない。  隠れホモの多くがカミングアウトしない理由を「ホモだって部分は、自分の一部分にすぎないから」とか「ゲイではなく、人間として生きたいから」と言い訳をするのと同じである。あのウォン・カーウァイでさえ、『ブエノスアイレス』について「基本的に二人の人間のドラマだから」とコメントしている。なぜ率直に「二人のゲイを描いた人間ドラマ」と言えないのだろうか!? 第5回を迎えたゲイ映画祭、正式には「東京国際レズビアン&ゲイ・フィルム&ビデオ・フェスティバル」は、その「ゲイ」という部分にこだわって世界中から作品が集められ、「ゲイ」という部分を媒介に日本中から4400人もの人を集める大規模なイベントだ。それこそ「ゲイにこだわらない」という変なこだわりをやめれば、こんなにも大きなイベントだってできてしまうのだよ、ホモフォビアの諸君!!
WEB Queer Net
http://www.wax.or.jp/L-GFF


[け-002]
ゲイナイト
gay night
 ゲイを集めて開かれるダンスパーティーであり、これがあるかないかでそのクラブの格がわかるバロメーター。もちろん、ゲイナイトが行われるクラブの方が格が上に決まっている(!)。日本で初めてのゲイナイトは89年に東京新宿・ミロスガレージで行われた「THE PRIVATE PARTY」である。このパーティーは、94年には東京芝浦・ゴールドに1369名ものゲイを集めたビッグ・イベントとなり、現在もなお「HEAT」というタイトルで毎月1度、東京新宿のリキッドルームで開催されている。ゲイナイトは90年代を通じて日本全国に広がり、大小各種、オーガナイザーの志向や集まる客のタイプによってさまざまに細分化されてきている。デブ好きのためのデブ専ナイト、ヒゲ好きのためのヒゲ専ナイト、ちょっと高めの年齢層をターゲットにした兄貴ナイト、フェティッシュなドレスコードを打ち出したGIナイトやレザーナイト、ふんどし着用がドレスコードといった「脱ぎ系」……など。これらの多種多様のパーティーはそのままゲイの多様性を反映している。「ゲイの数だけゲイナイトあり」といったところである。また、ゲイナイトは若いゲイにとって、わずかな資金で大きな収益をあげることのできる可能性に溢れたビジネスでもある。メン・オンリーと呼ばれる男だけしか入場不可のパーティーもあれば、ミックスと呼ばれる男、女、ゲイ、レズビアンの誰もが入れるパーティーもある。
WEB ゲイ・イベント情報!!
http://www.infonia.or.jp/~salut/event/event.htm
WEB Magazine
http://www.escot.co.jp/Dorothy/livrary/magazine/magazine.html


[け-003]
系/派
けい/は
 あらゆる言葉にくっつけるだけで、言葉の所在を曖昧にしてしまう90年代的なキーワード。「系」は枠の中の大きな流れを指し、「派」はその流れから分かれている支流のようなものだといえる。音楽に関して言えば、新しいタイプの音楽をレコード店のバイヤーや音楽ライターが、POPや雑誌の音楽欄などで新規にカテゴライズするために使用し始めた。その背景として挙げられるのは、グランジやデジタル・ロック、ドラムンベースなどの90年代的音楽が、別のジャンルの音楽同士の融合によって生み出されたこと。また、様々なジャンルのミュージシャンを集めた大型イベント、リミックスやミュージシャン同士のコラボレーションの活発化によって従来のようなカテゴライズが意味をなさなくなってきたことが挙げられる。
「系」の代表格「渋谷系」は、J-popブームの火付け役になったHMV渋谷店の名バイヤー太田浩氏がプッシュする、コーネリアスやピチカート・ファイヴといった様々なアーティスト達を指し、それが消費する側にも一種のテイストとして定着した。場所の名前が冠される、ほかの「系」として、洋服屋や雑貨店の女性店員が仕事中のBGMとして買い求める、ボサノヴァやジャズ、UKクラブソウルなどを指す「代官山系」などがある。また「オリーブ系」や「キューティ系」も場所ではないが、使用感としてはこれらと同じだろう。最近流行の「モンド系」「ラウンジ系」はミュージシャンの音楽活動の立脚点やサンプリングに使用する楽曲の嗜好性を表現している。また音楽的な着地点が、演ってる本人達にも受け手にも不明瞭な作品に対して、漠然とした方向性を与える目的で発生した「デス渋谷系」(中原昌也(暴力温泉芸者)やD.M.B.Q.等)や「音響派」(ゼロ・グラヴィティー、A.D.S.等)といったキーワードもある。
WEB 


[け-004]
ゲゲゲの鬼太郎
げげげのきたろう
 言わずと知れた、マンガ家水木しげるの代表作。昨今の漫画復刻ブームで『墓場の鬼太郎』が再刊されるなどアンダーグラウンドでの話題も豊富だが、97年に三度目のアニメ化がされ、これが高視聴率をマーク。過去の鬼太郎で育った世代が子を持つ年齢になっていることなどもあって、子供から大人まで世代を越えて楽しめるアニメとして新聞でも取り上げられる。アニメ版の内容は自然破壊など、人間の犯した罪によって妖怪が怒り街を荒らし、それを鬼太郎一派が解決、最後に人間の罪を教訓的に反省するエコロジカルなストーリーで、今の時代を反映、他にも、セルを一切使わずデジタルペイントに切り替え完全にデジタルデータ化した作画など、97年的話題溢れる作品となっている。
WEB 東映動画ホームページ「ゲゲゲの鬼太郎」
http://www.toei-anim.co.jp/TV-4/index.html
WEB ゲゲゲの鬼太郎に逢える町、鳥取県境港市の「ゲゲゲの鬼太郎妖怪商店」
http://www.sanin.com/kitarou/


[け-005]
ケタミン
ketamine
 「世界でもっとも多種大量のドラッグをやってる科学者」と言われるジョン・C・リリー博士ご執心の“究極のドラッグ”。63年、ベルギーのスティーヴン博士によって合成された全身麻酔薬である。三共の『ケタラール』(塩酸ケタミン)など、正規の医療用として流通しているのはリキッドタイプだが、闇市場で出回っているイリーガルものは、それを揮発させたパウダー、もしくはその粉末を固めたタブレットタイプ。ドラッグユーザーの間では、とりあえずサイケデリックス(幻覚剤)に分類されているものの、その効きは、あくまで“主体(自己)が存在し続ける”LSDやマジック・マッシュルームと大きく異なり、およそ30分間、自己を喪失し、全くの別世界に入り込むこととなる。要するに、強烈な夢見体験、あるいは臨死体験だと思えばいい。ゆえに、使用者のほとんどは横たわった姿勢でケタミンを摂取、慣れないうちは、無意識のまま動き回ってしまう恐れがあるので、誰かに見守っていてもらう必要がある。使用法としては経口投与とスニッフィング(鼻孔吸入)がもっともポピュラーで、稀に筋肉注射をする好き者もいる(トリップに関して言えば静脈注射には適さない)。ストリート・ネームは、K、あるいはビタミンK。日本では全く出回っていないが、クスリ大好きバックパッカーたちによれば、インドではここ数年、大量のケタミンが流通しているという。エンジェル・ダストなどと呼ばれる“悪魔のドラッグ”PCP(フェンサイクリジン)の作用はケタミンとほぼ同じだが、作用時間4〜6時間と、ケタミンとは桁違いに御しがたきスタッフだ。
WEB ケタミンとは
http://www.med.nagoya-u.ac.jp/pathy/ksap/dr/drketam.html


[け-006]
ケツマンコ
けつまんこ
 肛門、または肛門を使ったセックス・プレイ。世間では「ゲイはみんなアナルセックスをする」といった誤解が蔓延している。ゆえに、不勉強なノンケはゲイを目前にすると必ず「ねぇ、男役、女役、どっち?」などと訊いてくるものだ。これは、この世のすべてが男(=凸)と女(=凹)の組み合わせのみで成り立っていると信じ込んでいるバカなノンケの発想だ。彼らにとってゲイの肛門はマンコの代用品としてしか考えられない。しかし、アナル・セックスを好むゲイにとって肛門は、それ自体が立派な性器であり、純然たる独立した快感受容器官だ。
 しかし、最近ゲイ、とくにオラオラ系のゲイの間では、肛門もしくは肛門を使ったプレイを「ケツマンコ」と呼ぶ奇妙な風潮がある。ノンケも使う「手マンコ」「口マンコ」という言葉は、それぞれ手や口にマンコの代用をさせることを意味しているが、その考えからすれば「ケツマンコ」は肛門にマンコの代用をさせることである。しかし、女性の性器であるマンコは当然、ゲイにとっての欲情のコードにはなり得ない。むしろ性的なテンションを高めるためには女性をイメージさせるものを極力排除していく方向にあるはずである。事実、オネエ(=女性的なゲイ)はモテない。ならば、この「ケツマンコ」という呼び方は何故? ついにオラオラ系のゲイは「男らしさ」を追求するあまり、セックスさえ「男らしく」つまりノンケ男のようにマンコでやるようになってしまったのだろうか!?(だったらゲイをやめて、女とやってろって感じ……)
WEB モーホーシモネタ掲示板
http://www.dtinet.or.jp/~mogyu/PA.html


[け-007]
ケーブルTV
cable television
 電波ではなく通信線ケーブルを利用してテレビ番組を送信するシステム。通信回線を使用するため、光ファイバーケーブルなど回線容量の大きいケーブルを導入すると、一気に数百チャンネルの放送が可能に。現在、21世紀の多チャンネル時代の到来を前に、在京キー局も対応を検討中……とはいうものの。
 とりあえず言えることは、深刻なソフト不足の時代がすぐやって来るということだろう。いくら「一日中NBA」「一日中世界の車窓から」「一日中シンクロナイズド・スイミング」とか趣味のチャンネル増やしても見てもらわなきゃそれはTVではなく、マスターベーションになるだけだもんな。そこで提案。「有名タレントの部屋24時間生中継」てのはどうだ!? 今なら広末涼子か。ヒロスエの日常にアナタの目はまさにクギづけ! テレビを見るヒロスエ、あくびするヒロスエ、寝屁かますヒロスエ、高視聴率間違いなし!(何ッ!もうインターネット上にそういうホームページがあるって!?不覚!!)
WEB JCTV HOME PAGE
http://www.jctv.co.jp/


[け-008]
ゲーム
game
 90年代のゲーム業界で起きた最大の事件は、プレイステーション(PS)が次世代機戦争に勝ちを収めたことではなく、その結果として、任天堂の独裁体制が終焉を迎えたことにある。
 かつて任天堂は、84年のファミコン発売に始まり90年初頭に至るまで、市場の約90%のシェアを独占する驚異的な力を誇ってきた。8ビットゲーム機ファミコンの世界的な普及台数は6000万台を超え、その後16ビットゲーム機スーパーファミコン(SFC)の普及台数はそれを凌ぐ6900万台を記録した。こうしたなかで、任天堂はライセンス契約によるソフトハウス独占や問屋組織「初心会」で、ゲーム流通のキーを握ってきた。そのため、任天堂という企業はマイクロソフトにも似た、ビジネスに対する狡猾なイメージばかりがクローズアップされる傾向にある。が、そもそもソニーやセガ、あるいはユーザーが、今享受している世界的なテレビゲーム文化の基盤を産み出したのは任天堂であり、彼等が強いた独裁体制こそが、80年代から90年代の世界的なテレビゲーム文化をつくり上げてきたという事実は見落とすべきではない。
 任天堂がテレビゲームの市場にファミコンを投入したときにもっとも重視した問題は、アタリショックの再来を防ぐことにあった。日本のユーザーにはあまりよく知られていないが、かつて米国には、任天堂と同等かそれ以上に独占的な栄華を誇った家庭用テレビゲームメーカーがあった。アタリ――76年に世界で初めてカセット方式の家庭用テレビゲーム機「アタリ2600」を発売し、現代の家庭用テレビゲームの文法を完成させた会社である。
 当時のテクノロジーの結晶として生み出された「アタリ2600」は、発売されるや全米に爆発的なテレビゲームブームを巻き起こし、82年には全米の家庭の30%以上にマシンを普及させることに成功した。全盛期の任天堂ですら、この当時のアタリの普及率を達成するに至ってはいない。が、これほどまでにハードを普及させながら、アタリは83年のクリスマス商戦を境にまたたく間にユーザーに見放され、莫大な負債を抱えて倒産することになる。そうして、これに道連れにされるように米国での家庭用テレビゲーム市場も崩壊したのだ。こうした米国におけるアタリ社が引き起こしたゲーム市場の崩壊劇は「アタリショック」と呼ばれ、ゲーム業界に広く語り継がれることになった。
 アタリショックを誘発した直接的な原因は、家庭用テレビゲームという新ビジネスの金脈に眼が眩んだ投資家とソフトメーカーの愚行により、粗悪なソフトが氾濫したことにあったと分析されている。が、より本質的には、家庭用テレビゲーム文化の創造主であったアタリが、ビジネスとしてはゲーム機を普及させながら、その先の“ゲーム文化の担い手”たり得るテーゼを持ち得なかったことにある。
 任天堂はこうしたアタリの失敗を入念に研究したうえで、ファミコンの発売に合わせて「ライセンス契約制度」というシステムを産み出した。これは、ファミコン用のゲームカセット内部に「セキュリティーチップ」と呼ばれるチップを埋め込む手法によって行われた。「セキュリティチップ」とは、任天堂が独自に開発した暗号を記録したチップであり、ゲームカセットをゲーム機にセットしたときにカセット内部に埋め込まれたこの暗号をゲーム機側が認識することによってのみ、ゲームが作動するというものである。「ライセンス契約」とはこのチップを内蔵したカセットを任天堂から“前払いで購入”することなしにファミコン用のゲームの制作はできないとするものであり、結果的に、年間の制作本数や個々のタイトルを承認するか否かの選択権も任天堂側にゆだねる、というものだった。さらに、ソフトハウスはゲームソフト1本あたり1000円から1500円のロイヤリティまでを任天堂に支払わなければならなかった。
 こうした「ライセンス契約制度」は、過度にソフトハウスを締め付け、ゲーム開発の自由を奪うものとして非難を浴びた。が、その本質は、ファミコンというゲーム機に供給されるゲームのクオリティを、開発元である任天堂が責任を持ってコントロールできるシステムを産み出すことにあった。短期的な売り上げを考えれば、膨大なソフトを自由に開発させて、ユーザーに売りつけるほうが手っ取り早い。が、任天堂はあえてこれをしなかった。なぜなら、ソフトハウスの自由に任せていれば、ある年に野球ゲームばかりが10本も20本も発売されたり、売れたゲームの類似品ばかりが後追いで乱発されるという状況を招くことは想像に難くない。そうした状況の蔓延は、ファミコンというハードの信用性までを失墜させ、最終的にはテレビゲーム・カルチャーそのものがユーザーに見放されてしまうことをアタリショックから学んでいたからだ。
 つけ加えるなら、ライセンス契約により任天堂側に発生する「ソフトのクオリティコントロール」という作業にしても、単に目先の利益をあげることを目的に取り組めるほど簡単な作業ではない。これまでファミコン、SFCを通じて発売されたゲームの本数は10億本を越えるが、これらすべてのクオリティをチェックするには膨大な時間と労力を要する。そしてなによりもあらゆるジャンルのゲームに精通し、その商品のゲーム性を的確に判断できる人間が内部にいなければならない。任天堂がこれを可能にしたのは、任天堂が単なるハードメーカーではなく、世界屈指のゲーム開発者・宮本茂を要する一流のソフトハウスでもありえたからである。
 もちろん、カセットの前払い購入というやり方や、ロイヤリティの金額などの全てが適切であったとはいわない。が、ハード開発元が、責任を持って自社のプラットフォームに供給されるゲームのタイトルやクオリティをコントロールするという姿勢そのものは肯定されるべきものであり、事実、こうした任天堂の独裁的な管理態勢によって、米国の家庭用テレビゲーム市場は再興し、日本は世界的なゲーム立国になり得たのである。
 現在、任天堂の牽引によって築き上げられてきた家庭用テレビゲーム文化=任天堂カルチャーの土壌は、ソニーPSにその主導権を受け渡し、新たな時代を迎えたかに見える。が、ソニーにこの任天堂カルチャーを引き継ぎ、発展させていけるだけの力はあるだろうか? 任天堂の抑圧から解き放たれたソフトハウスはその反動から、膨大なPS用ソフトを産み出している。が、ソニー内部にはそれらのクオリティをコントロールする機構も、商品性を的確に判断できる評価体制も完成されていなかった。それは、自社にゲーム開発のノウハウの蓄積を持たず、外部の力を取り込むことによってビジネスとしての成功を勝ち得てきたからだ。(しかし、現在は急速に自社開発力をつけつつある)
 例えば、スクウェアなどの先進的なソフトハウスは『ファイナルファンタジー VII』の開発に際して、自社内で独自にPSのハード特性の分析を行うことによって『ファイナルファンタジー VII』を完成させたといわれる。任天堂は常に宮本茂を中心とした内部開発者が率先して、新たなハード特性を引き出したゲームを提示することで、サードパーティのゲームの質を牽引してきた。が、ソニーはそうしたサードパーティを牽引すべき力をスクウェアやナムコなどの外部に依存している。さらにつけ加えるなら発売当初は「開発の敷居を低くする」ことを目的に自社開発し、開発者に提供してきたライブラリーも、今では安易な開発を増長させ、プロトタイプ化された「くそゲー」を産み出す悪因の一つになり始めている。
 また、高度なマーケティング戦略によってゲームをポップカルチャー的な“イメージ”に塗り替え、これまでのゲームユーザーの周辺部を取り込むことで、ゲーム市場をメジャービジネス化することにも成功した。が、現段階で判断する限り、ソニーの与えた「自由」はゲーム文化を進化発展させる方向には活かされていない。デジタル技術の進化によってSFC時代にプレイヤーが抱えていたグラフィックとサウンド面でのストレスを解消することには成功しているが、逆にリアルタイム性などを犠牲にしている部分も多く、本質的なゲーム性はSFC時代から進化していないように思える。
 現実に95年度のPSの1タイトル当たりの平均出荷枚数は8万9000枚だったのに対して、96年には5万8000枚と大幅な減少傾向にあり、すでに採算割れを起こすソフトも現れはじめている。こうした状況にもかかわらず、ソニーは97年度中にさらに約800タイトルものソフトの供給を予定しており、開発の自由を与えられたソフト開発者達は、今後、熾烈な過当競争の渦中に投げ出されることになる。
 米国ではさらに顕著な兆候が現れており、PSよりも約1年遅れで発売されたNINTENDO64が、わずか15タイトルのソフトのみで、300タイトル以上あるPS用ソフトの累計を抜き去っている。これは任天堂とソニーのソフトのクオリティの差を明確に顕したモデルといえよう。
 こうしたソニーの参入によってビジネス化されたゲーム産業が抱える最大の問題は、テクノロジーの進化に見合った新たなゲーム性を産み出す余裕が生まれないことにある。常に新しいタイトルを供給することに追われ、膨大な競合他社製品の中で利益を上げるために、一時的な時流に乗ったソフトや売れたソフトの後追い的ソフトが氾濫するのは必然といえる。現実に、ここ数年間を振り返って、ゲーム市場は9000億円市場にまで膨張したが、PSという新たなハードの誕生によって新たなゲーム性を確立したゲームは、『アクアノートの休日』や『太陽のしっぽ』、つけ加えるなら『パラッパラッパー』など。その他のゲームは3DCGやグラフィック精度の向上によって、表面的には装いを変えたが、本質的にはファミコン、SFCの時代に確立されたゲームの粋を出ていないように思える。
 もちろん、デジタルテクノロジーの進化が必然的にもたらす、グラフィックの向上やサウンドの向上がゲームの進化に含まれないのかといえば、それも進化の一つではある。が、16ビット、32ビット、64ビットと加速度的に向上するチップの処理速度は、本来はグラフィックと同等かそれ以上に、新たなゲーム性の創造に向けられるべきものであったはずだ。かつて、N64のハード開発者である竹田玄洋は、「NINTENDO64の64ビットチップはグラフィック処理のために用意したものではなく、ゲーム開発者が新たなゲーム性を産み出すために用意した、我々から開発者への挑戦状だ」と言っていたが、これはN64にだけ当てはまる言葉ではないだろう。
 3DCGの導入に伴う大容量化、あるいはゲームの映画化という方向性はスクウェアによって確立された進化の道筋だが、その進む方向にはゲームの本来的な未来はないのではないか。スクウェアの産み出すゲームはファミコン、SFC、そしてPSと、シリーズを経る中で、「遊ぶ」ことよりも「観せる」ことへシフトしつつある。
 任天堂の宮本茂はこれからのゲームの重要要素の一つにインタラクティブという言葉を挙げ、これを「制作者の演出やシナリオをプレイヤーが受動的に受けるゲームから、プレイヤーの能動性を引き出すゲームへの進化」と定義したが、この言葉に当てはめる限り、スクウェアの方向性はゲームの本来的な進化とは逆行している。
 もちろん、宮本の言葉を待つまでもなく、スクウェア自身はそれを自覚したであろう上で、映画的方向へシフトしているのであり、結果として日本の市場において圧倒的な支持を得ている状況は評価できる。その目的はおそらくはゲームと映画の境界線上に独自の文化圏を確立することなのではないか。やはりゲーム本来の未来はないのだ。RPGがゲーム市場の2割以上を占めるような状況が日本固有の文化であることを考えれば(米国のテレビゲーム市場でRPGが占める割合は皆無に等しい)、スクウェアゲームは現在はゲームとして販売されているが、本来はRPG大国日本の特殊な市場の中でスクウェアが産み出した、独自のエンタテインメントとして評価されるべきものである。それだけに、スクウェアの成功を目の当たりにして、多くのソフトハウスがスクウェア的文法に盲従するなら、ハーメルンの笛吹きに連れられる人々のごとく、ゲーム文化そのものが進化の袋小路に陥る危険がある。
 97年8月現在、業界内の興味はすでにセガやソニーが開発を進める“次々世代機”の噂に移り始めている。セガは市場奪回を狙って128ビット級?のマシンを開発し、さらにソニーもまたPSの後継機を開発中だと言う。今後もビット数(処理速度)は加速度的に向上し、大容量化は否応なく進むことは間違いない。が、その先に、果たしてゲーム文化の未来はあるのか?
 次世代機戦争と呼ばれたシェア争いの中で、ソニーは受け継ぐべきゲーム資産がなかったからこそ、CD-ROMをメディアにした3DCG時代に素早く対応し、その環境を整備することで勝利を収めた。が、ゲーム市場におけるビジネスの勝者は同時に文化の担い手でなくてはならない。それは、テクノロジーの進化とともに新たなゲーム性、新たなゲーム文化を育成していくことなしに、ビジネスとしてのマーケットの成立もまたありえないからだ。ビジネスとしての勝利を勝ち得たソニーが、今後、任天堂カルチャーをソニーPSカルチャーへと進化・発展させていく“文化の担い手としてのテーゼ”を持ち得なければ、ゲーム文化そのものは衰退していくことになるだろう。
 とはいえ、それでも『ドラゴンクエスト』と『ファイナルファンタジー』がある限りPSを買わざるを得ないユーザーの現実を考えれば、ユーザーとゲーム文化を守る役割のすべては、最終的には、個々のゲーム開発者の成熟と自立によって果たされなくてはならないのである。 (山下卓)
WEB ゲームマシン
http://www.ampress.co.jp/


[け-009]
ゲーム産業
げーむさんぎょう
 わずか10年の間にサブカルチャーから日本を代表する1兆円規模の市場に膨れ上がったデジタルエンタテインメント産業。大きく分けてコンシューマ(家庭用)ゲーム産業とアーケード(業務用ゲーム産業から成り、90年代初頭までは家庭用ゲーム機市場を任天堂が独占。これを、アーケード・ゲーム市場で力を付けたセガが追撃する、という任天堂vs.セガの2強時代が続いていた。が、95年のプレイステーションを擁するソニーの参入によって、この業界構造は大きく崩れた。次世代ゲーム機戦争と呼ばれた32ビット家庭用ゲーム機のシェア争いでセガサターンを要して打倒任天堂をもくろんだセガはソニーPSの前に破れ、翌年、64ビット機NINTENDO64をひっさげて参戦した任天堂までが、ソニーPSに敗北するという波乱が起きた。この結果、任天堂とセガという2大派閥の間で抑圧さえてきたソフト開発会社の多くが新勢力であるソニーPSの傘下に大移動を起こし、業界構造は一変した。10年以上に及んだ家庭用ゲーム市場における任天堂独裁時代は終止符を打たれ、その背中を長年追い続けてきたセガは、新参者のソニーに“鳶に油揚げをかっさらわれた”形となった。現在、独走するソニーPSを王者奪回を狙う任天堂が追撃し、その後ろからセガが次々世代機128ビットマシン(?)によって大逆転を狙う、という3強時代に突入している。また、家庭用ゲーム機のシェア争いではどん尻のセガだが、アーケードでは依然として鈴木裕を筆頭に業界をリードするポジションを維持しており、都市型テーマパーク「ジョイポリス」や「Game Warks」による海外進出も好調。この業界再編騒動の中でもっとも株を上げたのは、しかしソニーでも任天堂でもセガでもなく、実は日本最大のソフトメーカー・スクウェアだった。そういう意味では、今後のゲーム業界をリードするのは、ハードメーカーの3強だけでなく、ここにスクウェアを加えた4強にかかっているといえる。
WEB 
http://www.orange.or.jp/~akao/HONKO/honks68..htm


[け-010]
K-1
k-1
 格闘技界のセックス・ピストルズ。この立ち技ナンバー1を決める大会は、93年からスタートし、97年には大阪ドームで予選、東京ドームで決勝戦を行うほど短期間で驚異的な人気集め、格闘技ファン以外にも認知されることになった。人気の要因はリアルファイトによる迫力あるKOシーンはもちろんだが、主催者である正道会館館長、石井和義の卓越したプロデューサー能力も大きいだろう。彼こそ格闘技界のマルコム・マクラーレンである。日本では一部のマニアックなファンでしか知らなかった強豪選手を招聘し、ピーター・アーツ、アンディ・フグ、ブランコ・シカティック、マイク・ベルナルド、アーネスト・ホーストなどの人気選手を次々と生み出した。97年には極真会館と提携し、極真最強の男、フランシスコ・フィリオも参戦させた。またプロボクシングの元東洋太平洋ウエルター級チャンピオン、吉野弘幸もK−1へ転向し見事にデビューを飾っている。さらに新日本プロレスとの交流戦も実現させるなど、今後さらに注目度が増すのは必至である。K−1は日本格闘技界に革命を起こす。
WEB K−1
http://www.k-1.co.jp/
WEB K-1を見に行こう!
http://www.urban.or.jp/home/geh02166/
WEB 挌闘天国
http://www.alles.or.jp/~asshi/index.html


[け-011]
ケン・イシイ(1970年生)
けん・いしい
 テクノというタームがヨーロッパ、とくにイギリスを席巻した93年、もっともヨーロッパで高い評価を受けた日本人アーティスト。 もしくは日本を代表するテクノ・アーティスト。もしくはDJクラッシュとしばしば一緒に語られる、ヨーロッパで成功した日本人アーティスト。70年、札幌生まれ。10代の頃はYMOなどニューウェーブに影響を受け、そして20代にはハウスやデトロイト・テクノから影響を受ける。ベルギーのレーベル、R&Sに送ったテープが気に入られ、93年に2枚組の12インチ・シングル「ガーデン・オン・ ザ・パーム」としてリリースされる。このシングルがイギリスで高い評価を受けたのが、ケン・イシイ伝説のはじまり。ところでケン・イシイが登場する翌年、イギリスにはもう一人の天才(と騒がれた人)がシングルたった1枚で『NME』に紹介されていた。リチャード・ジェイムス(エイフェックス・ツイン)である。
 レイヴ・カルチャーの猛威が過ぎ去った92年、ハウスというそれまで大々的に幅を利かせていたタームに変わって、テクノという言葉がイギリスの音楽誌を賑わしていた。テクノはデトロイト・テクノにルーツを持ち、その音楽性はハウスよりも自由度が高かった。当時イギリスのポップ・メディアは、テクノのことを行き詰まったダンス・カルチャーに風穴を開ける子供たちの叛乱を見守るかのように、好意的な眼差しで扱っていた。ケン・イシイはそういう状況の中で見出された。彼の音楽は、デトロイト・テクノの優れたアーティストと同様に冒険的であり、独創的だ、というのがデビュー当時のケン・イシイに寄せられたおおよその評価のされかただ。こうしたアンダーグラウンドでの評価だけでなく、ケン・イシイは、95年にリリースした『ジェリー・トーンズ』によって国内海外の安定した人気を獲得することになる。そのきっかけをもたらしたのは、森本晃司によるアニメーションを使った「エクストラ」なる曲のプロモーション・ビデオだ。廃虚とテクノロジーがせめぎあう未来都市をケン・イシイがバイクに乗って疾走する。それは海外からみればテクノジャパニメーションが融合した期待通りのヴィジョンであり、日本人からみてもわかりやすい図式が成立していた。未来都市とテクノロジー、廃虚と怪物。それらはケン・イシイの音楽で見せることのない物語性を“なんとなく”浮かび上がらせていた。あとはリスナーがそこに用意された世界に身を沈めればいいだけの話だ。 テクノはこのケン・イシイ森本晃司という優れたアニメーターの手によって、日本で初めて商業的な成功をおさめることになる。1997年にはアメリカでもデビューを果たし、最近ではロック的な要素も導入しようとしているようだ。
WEB jelly Tones
http://www.sme.co.jp/Music/Info/SonyTechno/KI/index.html


[け-012]
健康法
けんこうほう
 「健康」のためにする、特別な行為。その流行は大正時代半ばから見られる。戦後は高度経済成長の終わり頃から、はやり始めた。公害問題や薬害問題が深刻に意識されるようになり、医療不信を核とする反近代的な思潮と重なって、民間療法や健康法は浸透し始め、そのような反近代の意識が高まるにつれ、健康法的なものへの需要もより高くなり続けた。自然食品などの普及は、その結果である。しかし、健康法の種類は、無数に見えるほどあり、言い換えれば、それほど素晴らしい効果は期待できないものが多いということだろう。そもそも人間は病気に深い愛着を持っているので、そう簡単に癒えたりなんかしないのである。何誌もある健康雑誌やテレビが次々と紹介する無数の健康法は、それを次々と消費するマニアの存在を前提としている。慢性病や難病の患者たちの切実な欲求は、つねに一定数コアにあるにしても、現在の健康法の人気は、ちょっとした快さを求めて次々とアイテムを消費してゆくカルトな趣味としてあるようだ。かつては国民国家や企業国家による強制という面を持っていた「健康」信仰が、今では「快感」をベースとした個人的なものに変化したからである。
WEB 


[け-013]
建築MAP東京
けんちくまっぷとうきょう
 東京の現代建築を網羅した地図。94年にTOTO出版より刊行された。編集はギャラリー・間。マーケットの決して大きくない現代建築に関する書籍としては異例のヒットで、初版以来3年で8刷、6万部という売れ行きである。収録されているのは80年以降に竣工した建築を中心に536作品。「東京国際フォーラム」(ラファエル・ヴィニオリ設計)のように、刊行時はまだ竣工していなかったものも、模型と図面が掲載されている。ただし、いずれもいわゆる作家性の強い著名建築家によるもの。すべての建築にはカラー写真と基本データ、簡単な解説がついている。都内を17のエリアに分け、1万分の1の地図上にその場所を明示している。しかも鉄道の路線別という構成。索引は作家別、作品名別、用途別。つまり、これ1冊持てば、日本の現代建築のかなりの部分が、この目で見られるというサービスの行き届きようである。建築は写真や図面によってはなく、実作を直接見て鑑賞すべきものだということがよくわかる。事実、このマップを小脇に建築ウォッチングする建築学生、建築ファンが増えている。逆に、掲載を許可した個人住宅や集合住宅の住人のなかには、見学者があまりに多くて困惑しているという噂もある。それを見越したかのように、このマップには安藤忠雄の作品は青山の「コレッツィオーネ」ただひとつしか掲載されていない。都内にも安藤の作品は多いが、見学者が殺到することをおそれて、施主や住人の許可が得られなかったのである。
WEB MAPとしての東京
http://ziggy.c.u-tokyo.ac.jp/files/lecture6.html


[け-014]
限定モノ
げんていもの
 モノがあり余っているといわれて久しい日本のマーケットにおいて、さらに物欲をかきたてる商法として、“モノがない”というコンセプトの元に作られた商品。モノがないと、よけい欲しくなるという需要側の心理にストレートに訴え、消費者の飢餓感を煽り、商品を大ヒットさせる。本来は作るのに手間がかかったり、レギュラーの商品に比べて利益が低かったりするのだが、最近では供給側にも枠ができてきて、ある程度の儲けが出たら、それ以上の利潤を追求することはない。倉庫の問題から大量の在庫を抱えることが不可能なショップの商品群は、結果的に限定モノとなってしまう。いわゆる裏原宿系といわれるブランド群の成功の裏には、消費者側の飢餓心理に負う部分も大きい。数が少ない分、好きなものを作ってしまおうという発想を元に作られているため、大量に流通するアイテムよりも、ショップやブランド側の個性が色濃く出たものが多い。
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[け-015]
原理主義者
げんりしゅぎしゃ
 理想あるいは信条、あるいはある人物の行為や存在そのものを規範として生き、行動する人。あるいはその信条あるいは存在に殉じることを第一義として人生を全うしようとする人のこと。殉教者と呼称する場合もあるが、原理主義者は規範のために生命を捧げるべきとは必ずしも考えない。行動そのものの濃度が問題なわけであり、生を全うし全身全霊をその対象に託している自分を愛することではない。あくまでも行動上の大原則がその人物あるいは思想に因っていること、それを強く表現することによってその人物あるいは思想の有効性をより高めること、それらが“原理主義者”をあえて名乗ることの目的であり、あくまで結果として認識が増強されることを目論んでいる場合が多い。宗教的布教や勧誘、思想的感化との違いはそこにある。
 そのため原理主義者は積極的に啓蒙しようとはしないかわりに、行動あるいは活動の大部分を啓蒙のための手段として認識している。生活そのものが啓蒙活動たりえることを覚悟せねば原理主義者たりえないと考えるからである。大上段に振りかざし(何を?)、他人をやりこめるための主義主張をともなって活動する必要もないのもそのためである。しかるにその活動があえて世間にアピールされることは原理主義的有事であり、平常時においてはあくまでも慎ましく行動していることが多い。人間の存在意義あるいは存在の構造そのものの解明に深く関係していることが当然と考えられる原理に出会えた喜びの表明として、“原理主義者”という呼称を用いる人も少なくない。実例として、イスラム原理主義者勝新太郎原理主義者、水木しげる原理主義者、ブルース・リー原理主義者、ディズニー原理主義者などがある。
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