[え-001]
映画秘宝
えいがひほう
 ディノ・デ・ラウレンティス製作のリメイク版『キング・コング』(76年)を大作映画の原体験として育ってしまった人にとっては全く正しい映画雑誌。『宝島』の編集者を経て『映画宝島』シリーズの編集長となった町山智浩が、雑誌の企画ごと洋泉社へ移籍。そして95年に『映画秘宝』シリーズをスタートさせた。『エド・ウッドとサイテー映画の世界』で、最低映画監督エド・ウッドの諸作を始め、古今東西のローファイ・ムービーを紹介。『ブルース・リーと101匹ドラゴン大行進』で亜流カンフー映画にスポットを当てた。また莫大な制作費をかけながらも商業的に大失敗、もしくは商業的には成功しても作品的に大爆発を起こしている作品を紹介した『底抜け超大作』(水野晴郎先生の『シベリア超特急』もこの号で紹介)はレンタルビデオ屋の片隅でひっそりと余生を過ごしていたクズ映画に貸出中の札を巻くことに成功した。執筆陣は柳下毅一郎、中原昌也(暴力温泉芸者)、江戸木純、藤原章、友成純一など日本のオルタナ映画評論家の方々。紹介している映画そのものより、彼らの文章の方が明らかに面白いという意味でも、彼らの敬愛する70年代の東宝東和宣伝部イズムが爆発していて素晴らしい。また表紙のADはシリーズ創刊以来、宇川直宏が担当し、これまた素晴らしいグラフィックを提供している。有名なキネ旬襲撃パイ投げ事件以降、編集長の町山氏がアメリカに謎の移住してしまい、現在は不定期刊。
WEB Official Fabulous Baker Boys Home Page
http://www.ltokyo.com/yanasita/bakaboys.html


[え-002]
HMV
hmv
 「渋谷系」なる非常に曖昧なジャンルを独自に確立させた、純英国産輸入盤チェーン店。EMIグループ傘下の元、21年にロンドンに1号店をオープンさせ、90年11月には日本1号店をいきなり渋谷にオープンさせた。そのため洋楽フロアはすっかりテクノだのデジタルロックだのが幅を利かせるようになった世知辛い昨今でも、決してブリットポップ魂を忘れないのが大きな特色。オアシスやブラーといった英国産大物バンドの新譜に関しては、他店以上に売れまくるらしい。この辺り、同じ英国資本の大手チェーン店であるヴァージン・メガストアにも近い部分はあるのだが、大きな違いは邦楽部門である。渋谷店の邦楽フロアで、洋楽指向を持ったある種の日本人アーティストの横に、その元ネタとなった海外アーティストたちの作品を並べてディスプレイしたことが、結果的には歴史に名を残すこととなったのだ。これが国籍もジャンルも超えた「渋谷系」なる非常に不可解な音楽ジャンル誕生の瞬間でもあった。要するにロジャー・ニコルスの旧譜をベストセラーにしてしまったり、勢いで数十年ぶりの新譜をリリースさせてしまったりしたのは、すべて渋谷系の父の異名を持つ元HMV渋谷店店員・太田氏の功績だったのだ。97年9月現在、イギリスに100店舗、カナダに91店舗、日本に20店舗あり。
WEB HMV JAPAN INFORMATION
http://www.rittor-music.co.jp/digimart/hmv/index.htm


[え-003]
エイフェックス・ツイン
aphex twin
 イギリス郊外コーンウォール出身のリチャード・D・ジェームスのソロ・ユニット。テクノ・ムーヴメント吹き荒れる91年、R&Sよりリリースされた「ディジェリドゥ」がナショナル・チャートでも大ヒットを記録。オーストラリア先住民族アボリジニに伝わる民族楽器、ディジェリドゥの音色を大胆にサンプルしたこのハードコア・チューンは、今や伝説である。初期のアグレッシヴなサウンドからアンビエント、実験音楽、コラージュブレイクビーツなどとフレキシブルにスタイルを変化させる彼は、戦車を購入したり、何日間も眠らず曲作りに没頭するなどのエキセントリックな行動でも有名だ。子供の頃から部屋に閉じこもってはテープを切り貼りしたり、オリジナルの機材を作ったりして遊んでいたという彼のサウンドには、独特の閉塞感、攻撃性と幼児性があり、彼自身インタビューで、音楽を作ることが自分にとってある種のセラピーになっていると答えている。最新作『リチャード・D・ジェイムス・アルバム』では、牧歌的(夢遊病的?)な歌声も披露。全体的にポップな感触を増したこの作品によりクロスオーバーな支持を得て、97年2月のライヴでは新宿リキッドルームの動員記録を塗り替えている。
WEB 


[え-004]
evah
evah
 そのキャッチ・コピーに曰く、“心ウキウキ生き方発見マガジン”。96〜97年の『脳内革命』のバカ・ヒットで儲けたサンマーク出版が、船井幸雄的世界をとうとう雑誌化してしまった。96年12月に発売された創刊は、20万部を完売したという。evahというタイトルは、「エゴからエヴァへ」をキャッチフレーズにする船井のカラーを押し出したものだが、その語源は波動形態研究所所長の足立育朗が「宇宙の波動と同調して」知った「宇宙語」で、「愛、調和、互恵を基盤とした社会」を意味するとか。さすがは「心ウキウキ」。このノーテンキ雑誌が20万部、それもオジサマ方に売れているとは、世も末という感じだが、さすがに最近はそれほどは売れていない模様。試行錯誤の様子が見られるが、バカやイカレを集めたカルト誌へ向かうもよし、ニューエイジ的な問題意識から環境問題や社会問題を本格的にあつかう雑誌になるならそれもよし、もしそれで大部数を維持できる芸があるならたいしたものだが、そうなれば案外、穴場的な、貴重な雑誌になるかもしれない。
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[え-005]
エクスタシー
ecstasy
 12年、ドイツのE・メルク社が食欲抑制剤として合成したエクスタシーは、化学名MDMA(メチレンダイオキシン・メタンフェタミン)のもっともよく使われる俗称である。それから70年近くの時を経て、米ダウケミカル社の化学者であるアレキタンダー・シュルギン博士(昨年から日本に出回りはじめた合法タブレット2CBの設計者である)の著作『幻覚剤の薬学』(78年、未訳)に記載されたことにより、当該ドラッグ精神科医からジャンキーまで、広く一般に知られる存在となる。
 タブレットもしくはカプセルの形状で出回っているエクスタシーは服用後、40分から1時間後に作用が現れ始め、通常2時間から4時間、筆舌に尽くし難い多幸感に満たされる。この感覚は覚醒剤コカインなどによる高揚感とも、ヘロインの静寂・充実感とも異なり、あえて例えるなら“共感&慈愛”の心と称せようか。内面の幸福感に加えて、自己及び他者に対して、極めて素直かつフレンドリーな気持ちになれるのだ。「みんな友達、みんな恋人」といったあんばいで、まさしくインスタント禅、修行を積まずとも誰もがラヴ&ハグなマインドを体験してしまうのである。70年代半ば、米国の企業家及び科学者たちがMDMAの一般名を考えていたとき、第一候補に上がったのがエンパシー(共感)だった。しかし、エクスタシーの方がインパクトが強いということで、このネーミングに決定したという経緯もある。身体症状としては、吐き気、顎の震え、噛みしめ、眼球が小刻みに速く動く(焦点が定まらない/これはケタミン入りのものの場合が多い)など。あと、その名から誤解されやすいが、エクスタシーは媚薬・精力剤には決してなりえない。女性はともかく、覚醒剤コカインと同様、有効量を摂取すると陰茎及び睾丸は萎縮、とてもセックスできる状態にはならない。
 こうした特異な向精神薬理作用から、70年代から80年代初頭にかけて、欧米の精神科医たちは、エクスタシーを「薬物治療とセラピーの架け橋」と見なした。つまり、それまでの精神療法は、耐性というリスクを背負った薬物治療と、根気と期間を要するセラピーに二分されていたのだが、エクスタシーを使用すると、「薬物投与によって、セラピー期間が著しく短縮される」という、両治療の相乗有効作用が生じるのである。
 また、時を同じくしてハウス〜テクノ/クラブ〜レイヴ・シーンの盛り上がりにエクスタシー使用がシンクロ、大勢の人々が心を一つにしてダンス&トランスするムーブメントが勃興し、エクスタシー・ブームに拍車をかけることとなる。しかしながら、セラピー期間の短縮から精神科医の収入が減る、レイヴ・カルチャーの加熱に伴い覚醒剤コカイン、PCPといった混ぜ物入りのエクスタシーが蔓延、またニューロンの破壊など脳へのダメージが明らかになるなどして、80年代半ばには、欧米諸国でエクスタシーの非合法化が進み、我が国でも90年8月1日、麻薬及び向精神薬取締法の規制薬物に組み込まれてしまう。日本での俗称は、エックス、バッテン、バツ。末端密売価格は、97年9月現在、1錠3000〜8000円。今ではピュア・エクスタシーはめったにお目にかかれないが、覚醒剤のアジツケと同じく“混ぜ物”にも、善し悪しがあり、93〜94年に出回ったファンタジーなるエクスタシーは、多幸感がすこぶる強烈で、作用時間6〜8時間、なおかつ幻覚も見れる優れモノだった。噂では、MDMAにラヴ・ドラッグとも称される前駆物質MDA(MDEA説もあり)をミックスしたものだと言われている。
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[え-006]
AC
ac
 たしか日清食品の製品だったと思う。昔、「家族」という名前のインスタント・ラーメンがあった。「出前一丁」だとか「チャルメラ」「サッポロ一番」ならわかるが、なぜインスタント・ラーメンが唐突に「家族」と名乗らなければならないのか。小学生の私には不思議でならなかった。スープに、乾燥挽き肉のようなものが混ざっていたように思う。袋に印刷された童画ふうの絵も覚えている。テレビ・コマーシャルのメロディーは、今でも口ずさめる。
 それにしても、このラーメンを一家団欒に供せよということなのだろうか。一家総出で楽しく麺を茹でろということなのだろうか。インスタント・ラーメンなんて、どちらかといえば孤独な状況で食べる一時しのぎでしかなく、所詮は惨めで安っぽいものでしかないと当時でも思っていたから、「家族」というネーミングには異様な印象しか覚えることができなかった。
 どうしてこんなことを書いているかといえば、私はACという言葉を聞くたびに、たちまちあの不可解な即席ラーメンを思い出さずにはいられないからである。AC→家族→インスタント・ラーメンといった、およそ垢抜けない連想の産物でしかないのだけれど。
 ACとは、「アダルト・チルドレン」を略したものである。不健全な家族の中で育った子供(チルドレン)が成長した姿(アダルト)といった意味であり、子供時代の家族の有りようがノーマルな状況にはなかったことが重視される。今やAC問題の教祖と化した感のある斉藤学によれば、ACとは「親との関係で何らかのトラウマを負ったと考えている成人」「子ども時代に遭遇した家庭内トラウマによって、心の発達がその時点で停止した人」だそうで、つまり彼らは幼くして家庭でトラウマを負わされたまま大人となった「被害者」たちということになる。
 ただしその家庭内トラウマはきわめてアブノーマルなものからちっとも珍しくないものまであまりにも幅広く、「よく怒りが爆発する家庭、冷たい愛のない家庭、性的・身体的・精神的な虐待のある家庭、他人や兄弟姉妹といつも比べられる家庭、あれこれ批判される家庭、期待が大きすぎて何をやっても期待にそえない家庭、お金・仕事・学歴だけが重視される家庭、他人の目だけを気にする表面だけよい家庭、親が病気がち・留守がちな家庭、親と子の関係が反対になっているような家庭、両親の仲が悪い・けんかの絶えない家庭、嫁姑の仲が悪かったりする家庭」などで生じがちという(西尾和美「共依存症の精神療法」より、『こころの科学』59号所収、95年)。いったい、世の中に、本当に健全な家庭など存在するのだろうか? こうなると子供が独りで「家族」という即席ラーメンを食べるような家庭環境も、トラウマとして作用する可能性は高いことだろう。つまり私にもACの疑いがある。
 父親がアル中でいつも激しい暴力を振るっていたとか、近親相姦を強いられたとか、テストで一番を取らないと真冬でも家の外へ一晩締め出されるなどといった家庭に育ったら、その子供の心が何か不健全なものを抱え込む可能性は容易に想像できよう。しかし、たとえば「鍵っ子」はどうか。スパルタ式の父親は駄目なのか。ホステスは母親になる資格はないのか。歌手や俳優の子供はどうか。皇室はどうなのか。どうもいかなる事象であろうとトラウマと断定されかねない曖昧さに、ACにまつわる胡散臭さのひとつがある。
 トラウマを負ったことはとりあえず認めるとして、そのまま成長して大人となったACは、果してどのような人物として社会へ登場するのだろう。アメリカのクリントン大統領は95年に、自らがACであったと公言している(わざわざ選挙運動中に告白して当選している、といったあたりがどうもアメリカの嫌らしさだね……)。斉藤の本によれば、ヒトラーもまたACであったという。小説家やレディースコミック作家には自らACを認じている人物がいるし、オウムの信者(ことに高学歴の)にも数多くのACが含まれていたという。こうなると、いまひとつ明確なACイメージが像を結ばない。
 実はACに特有な症状なんてものはないのである。こういった言動をした、こんな症状があった、だからこの人物はACであるといった判断は不可能である。何でもあり、と考えてよい。だいいち、ACとは医学用語ではない。カルテには人格障害とか神経症などと診断名が記されるような人たちがACの大部分を占めている。じゃあ、そもそもどうしてACなんて概念が出てきたのか。
 ACとはある種の物語であり、また治療者にとっては戦略の一つなのである。カルテ上の診断名は人格障害であっても、ある患者にはごく普通の支持的なカウンセリングが適当であるし、別の患者には、その生育歴や家族関係からACという「物語」に則って対処をしていったほうが「より」効果が上がるということなのである。いかに患者を理解し対応していくべきかといった方針表明のひとつとして、ACという名称は存在する。
 ところが実際の場においては、ある患者を「たんなる人格障害」や「たんなる神経症」として扱うか、それともACとして扱うか、それは治療者の主義主張に委ねられることなる。そのときAC概念信奉者は、伝統的な精神医学的治療に対して不満と不信を隠さない。ACとして対処してあげねばこの人は救われない!といった思いを強くする。そのこと自体は構わないが、この図式がややもすると伝統的精神医学vs.「AC原理主義」的なトーンを醸し出し、あたかも西洋医学vs.東洋医学にも似た対立が生まれる。従来の精神医学に対する反感が、そっくり<ACという発想法に託される。そうした感情的なバイアスが、昨今のAC概念への盲目的信仰および、その信仰に対する揶揄の双方を生み出しているように思えてならない。
 症状こそ多彩であっても、ACには独特の心性ないしは「生きにくさ」がある、というのが定説になっている。いつも他人の評価を気にせずにはいられないとか、自虐的で自己卑下の傾向があるとか、慢性の空虚感や不安感があるとか、他人と自然な関係性を結べないとか、アルコール依存やワーカホリックなどに陥りやすいとか、と。なるほどそのようなことがあれば、日々の生活はあまり楽しくはないだろう。ただしACだけがそういったことに苦しんでいて、それ以外の人々は脳天気に暮らしていると思ったら大間違いなのであって、どうもそのあたりにも釈然としないものが残る。
 社会生活における彼らの「生きにくさ」が、子供時代の病んだ家庭環境への適応(なにしろ適応しなければ生き残れないのだから)に基づいているからこそ、ACは同情されるべき被害者だという理屈なのである。「見捨てられ不安」にいつも脅かされていたから他人の評価が気になるし自然な対人関係が結べない、親の思惑に沿って生きざるを得なかったから自分の価値を低く見積もり自己処罰の傾向がある、人間同士の基本的な信頼感を獲得し損なっているから空虚感や不安感を払拭しきれない、それを埋め合わせるために嗜癖に走りやすい、等々。これでは確かに本人は自然で「そつ」のない人生など送りにくいことだろう。周囲にとっては、まことに自意識過剰でうっとうしい奴と映るだろう。
 対人的なトラブルと違和感に満ちた人生を振り返り、また自身の精神の不安定さに戸惑うとき、「あなたはACなのです、あなたは家庭内のトラウマによって傷つけられた犠牲者であり、トラウマの引き起こしたメカニズムによって人生が不協和音を奏でていたのです。あなたはちっとも悪くありません、あなたは被害者なのです」という絵解きを与えられることは、大いなる救いとして機能することだろう。  幼少時にまで遡って問題点を求め、そこから現在の自分の病理性を理解し人生の改善の材料にするといった方法論は、精神分析に酷似している。が、ACという物語は、あまりにも雑駁かつ被害者意識に満ちあふれた通俗版簡易精神分析に堕しかねない。まことに他責的かつ自己肯定的なストーリーを安直に提供することにより、差し当たって当人は目から鱗の落ちた気分を味わうかもしれない。しかし、殊に精神科の領域において、明快過ぎる解説や万能の論理には警戒をすべきである。そこには過剰な単純化と、独善的な思い込みが現れやすいからである。カルトと大差のなくなる危険が生じるからである。
 自分を被害者として認識するのは簡単である。少なくとも、自分を責めるよりは楽であろう。自分が精神的な傷を負った人間と考えるのは、屈折した優越感を覚えることに通じるだろう。トラウマを措定しなければ、不甲斐ない自分の立つ瀬がなくなってしまう。
 近頃ではしばしば自称ACなる人物が闊歩し、彼らの多くはどこか得意気なのである。不遜で傲慢なところが垣間見える。フロイトが「例外人Ausnahmen」という存在について書いていて、これは自分が今までの人生で散々苦しんだり損をしてきたりしているので、もうこれ以上は苦しまなくてよいはずだ、自分には今までの損失を取り返すだけの特権があり、だから何事も自分に限っては許されて当然である、といった被害者意識のカタマリのような人々を指す。私は、自称AC氏と出会うとこの例外人と重ね合わせざるを得ないことが珍しくないのである。
 ところでACについてはさきほど、これは診断概念ではなくて治療概念であるといった意味のことを述べた。まぎれもなくACと捉えるべき患者は存在すると思う。ACという物語が成立する患者に遭遇することはあるし、その物語を介して自己の洞察を深めたり修正の機会を提供できることはある。世に流通しているAC関連の本を読んでみても、少なくともメカニズムのあたりまでは説得力がある。ところが治療の段になると、「癒しと成長」だとかエンパワーメント、シェアリング、シェア・チェック・シェア、リコネクション、ハグ、インナー・チャイルド、スピリチュアル・グロウスといった具合に何だかいかにも「精神世界」だかニューエイジだかを思わせる用語が頻出し始め、とたんに私などはしらけた気分に陥ってしまうのである。どこかボタンを掛け違っているような居心地の悪さに襲われる。
 こうした宗教的色彩によって、かえって救われる患者はいるに違いない。まさにAC理論が正鵠を射ているケースもある。だからこそ、いわばニューエイジ的いかがわしさへの生理的嫌悪感を真の動機としてACについての批判や揶揄をしてみても、どこか揚げ足取りで、しかも弱者へ石を投げているかのごとき後味の悪さを拭いきれないことになる。俺だってACに当てはまるじゃないか、といったシニカルな言い方をしてみても、あたかもロジックを弄んでいるだけのような不毛さが見えてくるだけであるし、逆に「お気の毒さま」と切り返されるだけであろう。  結局のところ、AC概念についてはあらゆる面において「けじめ」の欠けた無制限さがあって、それが不信感を覚えさせる源であるように思われる。先入観に色付けされたトラウマ探し、被害者意識を煽るような支持、例外人的な自己肯定を誘発させるストーリー作り、安っぽい宗教的癒し……このようなものを除外していると断言できるだけの毅然さが、いまひとつ実感できないのである。むしろ群れ集まって依怙地になっているような気すらしてしまう。
 医療者や福祉関係者にはACが多いという話があって、いくぶん自嘲的な部分もあるものの、やはりその傾向は確かにあるだろう。他人のために身を砕き、私生活へ入り込み、ときには支配し操作することへ強迫的に固執するといった側面は、まことにACの心性に沿っている。そして逆説的かもしれないが、おそらACという概念の成立にあたっては、治療したり支援する側の人間の心理がかなり投影されていたに違いないのである。
 AC物語の作り手の食卓には、「家族」という名前のインスタント・ラーメンがよく似合う。
(春日武彦)
WEB adult child network
http://www.surfline.ne.jp/jojo/


[え-007]
SF
sf
 今の小説ジャンル(そしてその派生物である周辺メディア)としてのSF(われわれ)はいくつかの意味でおかわいそうなジャンルではある。一つ目には、その歴史的な役割がすでに終わっていること。二つ目には、それにもかかわらず、その事実を自覚せずに見苦しくあがいていること。そして三つ目には、さらにそこであせって、屍肉あさりの似非アカデミズムのケツをなめて、すでにない命を伸ばそうとしているところ。
 SFというジャンルの歴史的な役割とは何か。それはテクノロジーに対する人間の反応を考えることである。だってSFが集合的に、社会に対して他に(通常の小説などには提供できない)何を提供できるというの? 小説家としては二流、三流以下の作家でも、その考察さえできればSFでは認められた。20世紀の人類にとって、戦後の日本社会にとって、この考察は重要だったから。そしてSFは、それに応えてきた。H・G・ウェルズはえらかった。今は亡き(比喩的に)小松左京も立派だった。チャペックは、ヴェルヌは、レムは、ステープルドンは、時代を代表する知識人であり、そして時代の期待に見事に応えたヴィジョンを提出してくれた。かれらの問題提起はいまなおパワーを持っている。
 だが今。現代社会は、もはやSFに技術と人の関わりを考察してもらう必要がないのだ。それはすでに現実に起こっており、社会はそれへの対応で手一杯なのだから。テレビの引き起こした恐るべき帰結は今まさにわれわれを直撃している。ポケベルに携帯にインターネットの影響なんか、まさに現在進行形。今必要なのは、問題提起ではない。もう問題は否応なくわかってしまった。いま社会が欲しいのは、その解決なのだ。
 もちろん、これからも技術は進歩し、新たな人間との関わりも生まれる。が、それを構想できる人間は、もうほとんどいない。生死すらさだかではない最後の語り部R・A・ラファティ。ようやく時代が追いつきつつあるJ・G・バラード。技術的風景を召喚できるウィリアム・ギブスン。大友克洋宮崎駿押井守村上龍の半分。ヴィム・ヴェンダースとティム・バートン、デビッド・クローネンバーグ。その他十指に満たないだろう。小説屋でないほうが多い。それに見てごらん。ウェルズやステープルドンに匹敵する大知識人や思想家が、ここに何人いるね。ウェルズらは、今世紀初頭という激動する時代の科学も技術も社会も思想もすべて把握していた。いまはそんな人間ってぇと、オレくらいか(ウソ)。
 あと残された手は、社会的な逃避を提供し続けることで、これはまあ映画やゲームなんかがやっている。とはいえ、バットマン新作や第五元素などを見ると、既存の枠組みを何度も使い回し、過去の遺物をたくさん寄せ集めているだけ。小説が担ってきた物語構築力なしにこれがいつまで続けられるか、現場の人間は大きな危機感を持っている。
 が、逃避に徹するならまだいい。いま出ているSFマガジンの書評欄で、評者どもが一様にほめているのが小谷真理の『聖母エヴァンゲリオン』で、「注が多くてセンスがいい」とか「刺激的」とか、何みんなおべんちゃら使ってるんだぁ! あんたら正気? どっかの借り物の理論を寄せ集めて、それに別のできあいの作品をこじつけていくだけの、我田引水のエレガンスも鋭さもない鈍重な書物ではないか。もうそんなことも見えなくなってしまっているのか。ちょっとフェミニズム用語をちりばめるだけで、今の日本のSF業界はひれ伏さなくてはならないと思っているらしい。バカだね。経済学者のポール・クルーグマンは言っている。アカデミズムではやるのは、正しい理論でも有効な理論でもなく、小利口だけれど独創性に欠ける院生どもが、小難しげな論文を量産して抜け目なさをアピールするのに便利な理論なのだ、と。デコンストラクション文芸批評もフェミニズム批評もその典型だ、と。言い得て妙だね。かつてのニューアカデミズムとやらの貧相な末路を、おまえたちはみんな見ているじゃないか。こんなのは昔、SF批評とやらでさんざんやって、結局たかられただけで何も生み出さなかったじゃないか。でも、いまの日本のSFは、それでもそんなものにすらすがらなくてはならない状況なのだろう。
 おそらくあと10年以上、これまでのような形でのSFが再生することはない。インターネット大衆化の黎明期にサイバーパンクが生まれたように、可能性がないわけではない。ITS大量導入で、一時的にSFが再活性化したりするかもしれない。『SFマガジン』も、つぶれはしないだろうが……いやどうだろう、わからない。来世紀にはもうないかもしれない。そして、そうした一時的な狂い咲きを除き、かれらが(われわれが)あと提供できるとしたら、有用性を失った存在がいかに潔く(あるいは見苦しく)消滅してゆくかという、おそらく今後の高齢化社会においてきわめて重要となるであろう組織モデルくらいだが、もちろんこれはSF本来の機能とは離れた別の関心領域となる。
WEB 


[え-008]
Xラージ/Xガール
x-large/x-girl
 ミュージシャンの作ったファッションブランドがノヴェルティグッズとしてではなく、トレンドとして受け入れられたほとんど唯一の成功例。ビースティ・ボーイズのマイク・Dが共同経営者の一人として名を連ねるXラージは、ステューシーと並ぶ、スケーターズ・ブランドの代表格として、転んだりぶつかったり、アスファルトで擦ったり、といったスケーター達の粗雑な扱いにも耐え得る、タフな作りの洋服を提供した。それだけでなく、フレッドペリーやロンズデイルの様なイギリスのモッズ・ファッション的な洗練されたセンスを取り入れ、「ワイルドなのにフォーマル」という一種セルフ・パロディのようなユーモア感覚溢れる新しいファッションを創り出した。Xガールもまたソニック・ユースの女性ベーシスト、キム・ゴードンとショッピング仲間のデザイナー、デイジー・ヴォン・ファースが、Xラージのバックアップを受けて設立したレディース・ブランド。キーワードは(Xラージと同じく)モッズ、ジャクリーヌ・オアシス、チャーリーズ・エンジェルなど。最初のショーはニューヨーク・ソーホーの一般道を通行止めにして決行され、ディレクションを今をときめくソフィア・コッポラと、ビースティ・ボーイズやウィーザーのビデオ・ディレクター、スパイク・ジョンズが担当。
 日本でも、ビースティの来日公演時にボアダムズのヨシミや、キムが原宿などでスカウトしたアマチュアのモデルを起用してショーを行った。その直後からXガールというキャッチーなブランド名と共に、人気と知名度は『CUTIE』読者を中心に高まったが、超コワモテのキム・ゴードンや、ゴージャスなプロポーションの欧米の女の子がアンバランスなロリータ風ファッションを着るガーリー・ファッションはそのミスマッチ感覚が大きな魅力だが、背も低く丸っこいSD体型の日本人女子が着ると、ただの子供服にしか見えなかった。
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[え-009]
A10神経
えーてんしんけい
 中脳皮質ドーパミン作動性神経。脳幹中央部にそって左右に2列並ぶ神経核のうち、外側がA系列、内側がB系列とされ、A系列の下から10番目のものがA10神経と呼ばれる。A10神経そのものは64年に発見されていたが、それが快感中枢であることは、78年にアリエ・ラウテンバーグによって発見された。
 人間のA10神経は、精神系をになう大脳新皮質前部、大脳辺縁系などに分布するが、体内で合成されたβエンドルフィンによってA10神経が興奮状態になると、その神経細胞からドーパミンを分泌し、周辺の脳神経細胞を覚醒させる。これが快感の正体だとされている。心の営みの基底にあるプロセスを外化してみせたかのようなこの理論が知られるようになって以後、A10神経やエンドルフィンという用語は、人間行動の動機づけを「科学的」に語ろうとする人々の愛用するものとなった。しばしば宗教体験もこの神経の作用と説明されるように、倫理や宗教の心理的基盤をも「科学的」に解こうとする欲望の、いい道具となっている。この思想を逆手に応用して大ベストセラーとなったのが、エンドルフィン分泌を自己実現のステップと結びつけて疑似科学的な宗教書に仕立てた春山茂雄『脳内革命』(96年)である。またアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の「A10神経接続」という台詞も、“心地よさ”(シンクロ率)至上主義的な現代のエトスを象徴して、記憶に新しい。
WEB Welcome to My Homepage !!
http://www.educ.ls.toyaku.ac.jp/~s967049


[え-010]
エバーグリーンドラマ
evergreen drama
 『ふぞろいの林檎たち』『北の国から』『桜中学シリーズ』『探偵物語』など、同世代の共通言語として機能する名作ドラマ群の強引な総称。現在25歳前後の人間が子供の頃に見ていた『ふぞろいパートII』の再放送を、現在の自分の姿とシンクロさせて見たり、子を持つ親になった者が『金八』をPTA側から見るといった楽しみ方が可能。また『北の国から』では、以前はピンと来なかった黒板五郎の生き方に男のロマンを感じる者もいるだろう。これらの作品は数回にわたる再放送やビデオソフトによって繰り返し見られているが、何度も見ているのにも関わらず、見るたびに新たな楽しさを発見できるのも特徴だ。ノスタルジアなどといったことよりも、結局は作品自体が繰り返しの鑑賞に堪えうるクオリティを誇っていることの表れだろう。
WEB 


[え-011]
FM802
fm802
 今や関西のFM電波制空権を支配しているといっても過言ではないほど影響力を持つ、ミュージック・ステーション。89年6月開局以来、“FUNKY”を合言葉に洋楽・邦楽のロック/ポップスにこだわる独自のカラーを打ち出して、小室ファミリーの曲は一切オンエアしないという暴挙すらやってのけている。クラシック、ジャズ、歌謡曲はかけないというのが不文律らしいが、ジャズでもヒップ・ホップなのはかかったりするし、安室奈美恵がダメでシャ乱QはOKというジャッジはかなり謎だ。そのへんに既成のヒットチャートに甘んじることをよしとしない、大阪のステーションらしい反骨な精神を感じさせるわけだが……。802発信のヒット曲を生み出していこうといった姿勢も強く打ち出して、開局と同時に現在では常識となった“ヘヴィ・ローテーション”システムを採用。古くはKAN「愛は勝つ」、槙原敬之「北風」、最近では山崎まさよし「one moretime、one more chance」、スガシカオ「黄金の月」など、数多くのヒット曲をいち早く紹介してきた。イベントにも精力的で、ストリートでゲリラ・ライヴを敢行する“LIVE FLASH”、ニュー・フェイスのショー・ケース的イベント“GOTTCHA!”“COOL NIGHTS”、大物ロック・アーティストが続々出演する“MEET THE WORLD BEAT”、ほかにはスポーツ・イベントも……と、リスナーの痒いところに手が届くバリエーション豊かな展開をしている。
WEB FM802
http://fm802.co.jp/


[え-012]
FLMASK
flmask
 大阪の会社員が作成し、インターネット上でシェアウェアとして公開していたウィンドウズ95用の画像処理ソフトのこと。シェアウェアの画像処理ソフトはいくつもあるが、FLMASKはとくにエロ画像の局部を、いわゆるボカシやモザイクのようにマスキング処理するために使われることが多かった。それは、このFLMASK自体を持っていればマスキング処理された画像を元の画像に戻すことができるという理由からだ。オンラインや通販で販売されたMASKファイルと呼ばれるエロ画像は、暗にFLMASKを使えばマスキング処理を外すことができるということをうたっていたし、作者が開設していたFLMASKのサポートページには、「アダルトクラブJ-BOX」や「あまちゅあふぉとぎゃらりー」といったアダルト画像ページへのリンクが張られていた。しかし、このリンクという行為が大阪府警の目に留まり、97年4月にFLMASKの作者は逮捕されてしまう。容疑は「わいせつ図画公然陳列幇助」。作者とその弁護団は「デジタルデータははたしてわいせつ物か」という点で徹底抗戦する構えである。ホームページでのリンクという行為が罪に問われた最初の事件として、FLMASK事件は現在も審議が継続中だ。
WEB 中井三郎flmask
http://www.cyborg.or.jp/~cyakira/bengosi/flmask.html
WEB FLMASK USER GROUP
http://www.pileup.com/mask/


[え-013]
1/fゆらぎ
えふぶんのいちゆらぎ
 生物、無生物にかかわらず自然界に普遍的にあるとされ、さらに人間の快感刺激にもかかわるとされる、ゆらぎの法則。周波数(f)に反比例するところから、「1/fゆらぎ」と呼ばれる。均質な雑音をホワイトノイズというのに対して、ピンクノイズ、フリッターノイズともいう。25年、真空管の電子流の雑音の計測中に発見されたのが最初で、今では、水晶発振器、フォノンの励起状態、銀河系の磁場、動物の心拍周期、ニューロンの発射する活動電位パルスの間隔ゆらぎ、人間が快く感じる音楽や自然音などにまで、この1/fゆらぎは「発見」されている。日本では脳機能研究所所長の武者利光がこの分野の第一人者で、様々な1/fゆらぎを「発見」してきた。武者によれば、快い音楽やせせらぎの音には、音響振動数の時間的な変動に1/fスペクトルが見られ、不快な音やロックなどの現代曲にはこのゆらぎが見られないという。宇宙に普遍的に見られる「法則」と人が快感を感じることの「法則」とが一致する! というわけで、1/fゆらぎは、「自然の法則」、いわば「聖なるゆらぎ」となり、精神世界のアイテムとなった。退屈なリラクゼーションCDなど、どうでもいいものを価値づける「お札」として活用されたのである。
WEB ゆらぎ研究所
http://home.ksp.or.jp/yuragi/index.html
WEB 1/f ゆらぎ
http://www.acom.co.jp/life/healthy/yuragi/yuragi.html
WEB 1/f ゆらぎ
http://www.math.wani.osaka-u.ac.jp/~kaneda/voss.html


[え-014]
M2
m2
 かつて3DO-REALによって次世代機ブームの火をつけながら真っ先に戦線離脱した松下電器が、ゲーム業界へのリベンジをかけて開発していた64ビットゲーム機。なにを今さら、と冷笑されるなか「あっと驚くソフトを用意している」など、不敵な自信を振りまいてきたが、同じ家電メーカーであるソニーのプレイステーションの好調の前に臆したのか、97年に正式にゲーム市場から退いた。とはいえ、次世代機ブームの火付け役としては業界を盛り上げてくれた会社でもあり、目に見えない貢献は大きい。ただ、M2での発売が予定されていた『Dの食卓2』などのソフトの行方が気になるところ。
WEB 


[え-015]
MD
md
 ミニ・ディスクの略。DATに代わる手軽な音声のデジタル録音・再生メディアとして発売されたが、音にうるさい人の間では「DATよりも音が悪い」という評価が一般的だ。最長74分のMDディスクの場合、CD1枚分のデータ量を1/4に圧縮して録音・再生しているということが「音が悪い」という評価の発端だろうが、実際に大音量のサウンドシステムで聴いた場合、CDやDATとは耳でわかるぐらいの差がある。MDの価値はそういう方向ではなく、これをカセット・テープの代わりと考えた場合にこそあるだろう。通勤通学のウォークマン以外にも、講演会や会議の録音、語学学習までもが徐々にMD化されつつある。MDは現在のところもっとも簡単で安上がりな音声のデジタル記憶装置だからだ。でも海外ではなぜかあまり知られていないのは、単にあまり売っていないからなのか?
WEB 特集・やっぱり今はMDか?!
http://www.alles.or.jp/~mishina/tokusyu.htm


[え-016]
LED
led
 ライト・エミッティング・ダイオード(発光ダイオード)の略称。半導体ダイオードの光自然放出現象を利用したデジタルウォッチを示す。70年代にアメリカ・ハミルトン社から「パルサー」の名前で誕生するものの、わずか数年で値崩れを起こし、性質上、発熱やカーボンの付着による故障も問題となり、生産中止に追い込まれる。そんなパルサーだが、95年あたりからストリート・ファッションで多大な影響力を持つ藤原ヒロシがコレクションを始めたという情報がファッション雑誌に掲載。一気にストリートでのパルサー発掘も熱を帯びることとなる。しかし、実際の数自体が少なく、故障も多い商品とあって、完全可動品となるとその数はさらに少なくなり、パルサーはプレミア化の一途をたどっている。そんな「数がないから高く売れる」という定理に気づかない各メーカーは、今から慌ててLEDを作り始め、パルサー・ファンの嘲笑を買っている。
WEB 


[え-017]
LSD/LSD25
lsd/lsd25
 60年代、欧米で吹き荒れたサイケデリック・ムーブメント〜ユース・カルチャー〜カウンター・カルチャーの火付け役ともなった、言わずと知れた幻覚剤のトップスター。スイスのサンド社で麦角(ライ麦に寄生する猛毒菌)の有効活用を研究していたアルバート・ホフマン博士が、38年5月2日に合成、彼の手指の傷にそれが付着したことから偶然その幻覚・向精神作用が判明したのは、それから5年を経た43年4月16日のことである(詳しい経緯はホフマンの自著『LSD 幻覚世界への旅』新曜社を参照)。巷に出回っているLSD25=LSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)は、正方形のブロッター・ペーパー(吸い取り紙)にしみ込ませた形体ものがほとんどで、それを舌下に挟んでおくと約1時間後、様々な幻覚を伴う作用が発現し始める。作用時間は4〜12時間。
 LSDの向精神/感覚/肉体作用は幻覚だけに止まらず、クラブ〜レイヴ(ハウス〜テクノ)に代表される音の体感、啓示にも似た閃き、内省の深化、俗に言う意識変容など、数限りない作用がユーザーにもたらされる。米『プレイボーイ』誌66年9月号にて「LSDは最高の媚薬である」と公言したハーバード大学の心理学講師、故ティモシー・リアリーの発言などは、その作用の多様性を顕著に物語る好例だろう。こうした幅広い効果は、LSDがアップ系脳内神経伝達物質の総司令部と目される脳の青斑核にダイレクトに働きかけ、脳全体を覚醒剤コカインをも上回るスケールで興奮・覚醒させるためだと推測されている。ただし、60〜70年代では1枚(1ヒット)の紙片に250〜500μグラムものLSDが含有されていたのに比べ、80年代半ば以降、レイヴ・エイジの現代では20〜80μグラムしか含まれていないため、踊るのには向いているかもしれないが、真のサイケデリック体験をするためには何枚ものペーパーを一遍に舐めなければならず、ひどく不経済である。97年9月現在の日本での末端価格は、1枚1500〜3000円。。
 ここ最近になって、LSD25の化学構造をマイナーチェンジして、その短所をカットしたLSD27、LSD29が我が国にも入ってきているらしい。体験者の話によれば、LSD29は「反省モードに入ったり、攪乱したりといったバッド(精神的な落ち込み)が全くないLSD」とのこと。LSD25に関して言えば、セット(心の状態)とセッティング(場所、一緒にやっている者、かかっている音楽などの環境)が「効きの全てを決定する」と断言する研究者もいる。67年、国連はLSDの生産禁止を決議、日本では70年に、麻薬及び向精神薬取締法の規制対象物質となった。
WEB トランスパーソナル心理学の確立 スタニスラフ・グロフ
http://www.amnet.co.jp/home/tatsuo/transp/transp06.htm


[え-018]
エロ画像
えろがぞう
 アダルトビデオが家庭用ビデオデッキの普及に一役買ったのは周知の事実だが、インターネットの普及も膨大なエロ画像の力による部分を否定することはできないだろう。とくにWWWの場合、今見ている画像が日本の法律では「見せてはいけない画像」でも、それがアメリカなど海外のサイトにあるのであれば、日本の法律でそれを取り締まることは不可能だ。インターネットを使えば見放題だという、週刊誌やTV「トゥナイト」(テレビ朝日)などの喧伝もあり、無修正エロ画像を求める多くの人々がウィンドウズ95のインストールされたマシンを買い込んだというのも、ある程度当たっていると思われる。現在は有料のサイトが増えてしまったが、それでもインターネット上には数多くの無修正エロ画像がアーカイブされている。有名なのはニューズグループのalt.binaries.pictures.eroticaだろう。ここには匿名の投稿者によって、レズビアンやチャイルドポルノ、ボンデージなど、ありとあらゆる種類のJPEGやGIF画像が世界中から集まってくる。FLMASK事件の後、日本国内で発信されているものには、さすがに無修正は少ないが(それでもないわけではない)、個人ページでヒット率でヒット率の高いところは今でもその半数以上がポルノ系のページだ。
WEB 


[え-019]
演劇
えんげき
 アイドルの世界がそうであるように、かつての夢の遊眠社や第三舞台のような人気劇団の空位時代が続く演劇界。90年代に入り、あたかも日常のひとコマや小津安二郎の映画を見るように何も起こらない淡々とした、青年団などの“静かな演劇”が文字通り静かなブームを呼んだが、それも一段落した感がある。80年代の小劇場でベケットの『ゴドーを待ちながら』が好んでモチーフに使われたのは、ただ“待つ”という消極的行為にいかにバリエーションをつけ、豊かに見せるかということだったと思うのだが、90年に入りゴドー変奏曲にもピリオドが打たれ、何も起こらない状況をそのままに描く作法が身についてきたようにみえる。
 その意味で公演としては成功といえなかったが、92年のいとうせいこうの『ゴドーは待たれながら』は、誰に待たれているのかさえ忘れたゴドーの悶々を描き、退屈と戯れる時代から退屈を退屈として描く時代へのターニングポイントを端的に表した作品であった。カーチェイスがウリの映画から給油シーンが省かれるように、省略が一つのテクニックなら、そのテクニックから零れ落ちた切実なリアルによって作品を描きたいともいう宮沢章夫。『愛の罰〜生まれつきならしかたない』のサブタイトルに象徴されるように障害や貧困、差別といった様々な因果の不幸をトコトン描いてその前途に何らかの光明を見いだそうとする大人計画の松尾スズキのように、なにがしかのマイナスを肯定するところで90年代の演劇は成立しているのである。
 ただ、こうした芝居そのものの深刻度に反し、演劇を取り巻く環境は盛況である。97年の新国立劇場オープンをはじめとして、21世紀を迎えるまでに3日に2つのホールがオープンするという劇場ラッシュの状態で、リハーサルルームや稽古場を備えた総合的施設も増えている。現在、関西で劇団が急増したことや鈴江俊郎や松田政隆をはじめとした劇作家を輩出しているのは、80年代後半から関西における演劇の環境が整いはじめたことにも起因している。さらに、デジタル多チャンネル時代を迎え、演劇専門のチャンネル「シアターテレビジョン」もパーフェクTVの一つとして開局。その視聴者の9割が実際に劇場に足を運んで演劇を見た経験がないというだけに、それが演劇界にどんなフィードバックをもたらすのかいまだ予想がつかず興味がもたれるところである。
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[え-020]
援助交際というムーブメント
えんじょこうさいというむーぶめんと
 援助交際が、なぜ今にして起こり、またなぜごく普通の少女たちが「あっけらかん」とそうした行為に及んだかについて、河合隼雄が雑誌『世界』97年3月号に発表した記事の題名。女子中高生たちは、心身二元論を超えた「たましい」という存在を抜きにした人間関係の空漠さを、売春によって無意識に実証してみせており、それが現代日本への異議申し立てのムーブメントとして機能しているという。「たましい」の関わらない付き合いはまったく本人の経験として作用せず、それゆえ彼女たちの日常は平穏なまま過ぎていく。しかし結局のところ本人は、そうした生き方によって自分の「たましい」を傷つける。あえて「たましい」といった言葉を用いねば意を尽くせぬところに、この問題の微妙さが窺えよう。女子中高生たちに内在する無定形のエネルギーが、反抗や暴発ではなく売春といった形で発現してしまうような社会が、豊かさと便利さとに満ちた現代日本の正体だったのである。
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