[ひ-001]
ビアン
びあん
 ジャパニーズをジャップと略した場合と同様に、レズという略語にまつわるポルノチックなイメージを差別的だと嫌う当事者たちが使い始めた、日本でのみ通用するレズビアンの略称。フランス帰りの女性が「トレビアン→レズ<ビアンビアン」と略したのが始まりだと言われている。94年、第1回東京レズビアン・ゲイ・パレードを機に結成されたグループが「国際ビアン連盟」を名乗り、「ビアンと呼ぼう、レズビアン」というプラカードを掲げたことから広く使われるようになった。レズビアンにまつわる日本の俗語としては、「タチ(男役)/ネコ(女役)」などがあるが、ジェンダーそのものが問いなおされている現在、そのような役割分担は強制的なものではなくなり、言葉の意味も変化しつつある。「タチ(主にセックスにおいて能動的な方)/ネコ(受動的な方)」と定義する場合が増えたが、どちらにも当てはまらない人や役割を固定しないカップルも珍しくない。外見はボーイシュでも性格およびセックスにおいて受動的な人もいれば、スカートや化粧などの女っぽいファッションを好むリップスティック・レズビアン同士のカップルもいる。また、かつては男っぽいレズビアンを侮蔑的に呼ぶ米俗語だった「ダイク」という言葉で自らを表現する日本人女性もいる。レズビアンという言葉からAVを連想する人や男っぽい女を連想する人もいるだろうが、実際のレズビアンは一様ではなく、多様な存在なのだ。
WEB sexuality homepage
http://wom.vcom.or.jp/j/SEXUALITY


[ひ-002]
PHS
phs
 「パーソナル・ハンディフォン・システム」の略称。95年7月よりNTTパーソナル、DDIポケット、アステルの3社がサービスを開始している。発売当初は、“安いけど使えないヤツ”くらいにしか見られていなかったが、ようやく独自のメリットがいくつか実感できるようになった。まずデータ方式がデジタルのため、音質がよく、盗聴されにくいということ。次に中継する基地局(アンテナ)が小型なので、携帯が届かない地下街などにも設置できるということ。そしてこれから注目されるであろう点が、97年よりデータ通信速度が32kbpsに対応して、電話回線同様の速さが達成されたこと。ノートパソコンなどを使ってモバイルするビジネスマンなどは、モバイル用にPHS、連絡用に携帯電話と、同時に2つを持ち歩く者も少なくない。女子高生には、ポケベル感覚でコミュニケーションできる文字メッセージサービス(DDIポケットで言えばPメール)も重宝されるだろう。「たまぴっち」も、携帯端末の可能性を提示してくれた……と言えなくもない。あとは使える範囲が広がるのを待つばかりだが、アンテナを増やしたいがために、やたらと本体を配りまくるのは、確実にイメージダウンと繋がっているはずである。
WEB NTTパーソナル
http://www.nttphs.co.jp/
WEB DDIポケットグループホームページ
http://www.j-plaza.or.jp/ddi-pocket/
WEB ASTEL GROUP SERVICE AREA
http://www.astel.co.jp/


[ひ-003]
PL法
ぴーえるほう
 95年から施行された製造物責任(PL)法。欠陥のある製品によって何か事故があった場合に、欠陥製品を作ってしまった製造業者などが被害者に対して負わなければならない賠償責任。子供相手の商品を作るおもちゃメーカーにもこの法律の影響は大きかった。ソフビ人形はいままでのものよりも軟らかい材質のものに、とがった部品なども角を丸くするなど、現行商品もマイナーチェンジが行われた。よって、PL法以前の現行商品は、絶版のレアものとなったわけである。
WEB PL HOME PAGE
http://www.tachibana.co.jp/pl/


[ひ-004]
樋口真嗣(1965年生)
ひぐち・しんじ
 特技監督。撮影を「見学したい」が「見学者お断り」のため、仕方なく自ら東宝のドアを叩きスタッフに。映画『ゴジラ』(84年)から怪獣造形に携わり、ビデオ『八岐之大蛇の逆襲』(86年)で特技監督デビュー。リアルなミニチュアセットが生み出す、生活感のある緻密な特撮が注目を集める。『帝都物語』(88年)『大霊界』(89年)『孔雀王アシュラ伝説』『URUTRA Q THE MOVIE/星の伝説』(90年)等で特撮絵コンテを、『ナインライブス』(90年)『ミカドロイド』(91年)『未来の想い出』(93年)『宇宙貨物船レムナント6』(97年)で特技監督、アメリカ製作『ウルトラマンパワード』の怪獣デザイン、アニメ作品では『ふしぎの海のナディア』や『新世紀エヴァンゲリオン』の演出・脚本・絵コンテを担当。映画『ガメラ 大怪獣空中決戦』では、オープンセットを用いて自然光を大胆に取り入れるなど「やりそうだけど誰もやらなかった(やれなかった)」アイディアを駆使した特撮を行い、絶賛されるが(その内容が「近年の特撮では見られなかった斬新な〜」というものだったが……。)、キチンとした眼を持つ者からはアニメ的テイストが消化されず単なるチープな絵となってしまっている点に非難の声が上がる。「絵コンテだと格好いいけど撮るとダメになる」というのは、押井守監督作品『赤い眼鏡』の例を出すまでもなく、アニメ出身者が実写を撮った場合によく起きうることだが、『ガメラ1』においてもそんなツメの甘さが鼻に付く。そういった箇所をキッチリと清算する姿勢で撮られている『ガメラ2・レギオン襲来』は「見たい絵」と「撮れる絵」の違いがしっかりと突き詰められ、否定的だったファンの信用を取り返した。なかなか信頼のおける人物である。蛇足だが、やはり「シンジ」は「真嗣」からなのだろうか。
WEB 大映『ガメラ2』ホームページ
http://www.tokunet.or.jp/MOVIE/GAMERA/gamera2.html


[ひ-005]
ビジュアル系
びじゅあるけい
 ビジュアル性を重視したバンド群。ルックス/サウンド/バンド名などどれも似たり寄ったりで、門外の人間には判別が難しいが、レコード会社の青田買いもさることながら、メジャー・デビュー前にCDを何万枚と売り上げ、渋谷公会堂などの大ホールを満員にしてしまう彼らの勢いはやはり凄いものがある。その中でも現在休業中のLuna Sea各メンバーの動きには注目せざるを得ないだろう。ヴォーカリスト河村隆一はソロ・シンガーとしてヒットを連発するかたわら、ドラマやトーク番組にも進出、ベーシストJはジャパニーズ・オリジナル・パンク・バンド、アナーキーのメンバーや、DJクラッシュらと共にユニットを結成し、ドラマー真矢は秋元康プロデュースによるシングルを発売した。そしてギタリストのSugizo周辺がさらに凄いことになっている。ドラムンベースやアブストラクト・ヒップ・ホップの一級アーティストによるリミックス盤をリリース、土屋昌巳(「すみれSeptember Love」でお馴染みの一風堂の元メンバー。現在はBlanky Jet City等のプロデュースを手掛ける)、DJクラッシュ、ジャンセン、バルビエリ&カーン(ニューウェーヴ・バンド、ジャパンの元メンバーたち)らとライヴ共演するなど洋楽マニアを唸らせた。90年代のお茶の間から80年代のロンドンまで……Luna Seaがこんなに幅広い音楽因子を持ったバンドだったとは。商業ベースにドップリと浸かっているはずのシーンの中で、そのトップ・バンドがこれほど自由な活動を展開していることは評価されるべきだ。
WEB 


[ひ-006]
ビースティ・ボーイズ
beastie boys
 80年代中頃のアメリカ・ヒップ・ホップ・シーンに彗星の如く登場したヒップ・ホップ・チーム。ハード・ロックとヒップ・ホップを掛け合わせたユニークなスタイルで、デビュー作『ライセンス・トゥ・イル』はメガセールスを記録した。しかし、白人ティーン層の圧倒的支持は得たものの、黒人リスナーたちからはミドルクラスの白人の坊やのお遊びと反発を食らう。デフジャムとの金銭トラブルでレーベルを移籍しての89年『ポールズ・ブティック』では、さらにヒップ・ホップ的アプローチを強めたもののセールス的に失敗。しかし、カリフォルニアに拠点を移してリリースされた92年の『チェック・ユア・ヘッド』からは、時代が彼らに味方しはじめる。昔のように楽器を手にしてハードコア・パンクを取り入れ、スケーターら新しいリスナーを獲得。再び勢いに乗った彼らはレーベル、グランド・ロイヤルを設立、雑誌を創刊し、ファッションブランドのXラージを興す。
 メジャー・システムの中でインディイズムを追求するというスタンスや彼らの感覚に共鳴したアーティストたちが集まり、フットワークの軽さとネットワークを隅々まで活かした活動を展開。レーベルからはビースティのオリジナルメンバーを含むルシャス・ジャクソンやオーストラリアのティーン・シンガー・ソング・ライター、ベン・リーなどをリリース、X-Large傘下にソニック・ユースのキム・ゴードン&スタイリストのデイジーによるX-Girlを設立。雑誌は現在NO.5まで刊行され、ソニック・ユース、ベック、ジョン・スペンサー、ボアダムズバッファロー・ドーター、チボ・マット、ソフィア・コッポラ(フォトグラファー、ファッション・デザイナーetc.)、マイク・ミルズ(デザイナー)……といったアーティストたちとの交流が、さまざまな形となってシーンに影響を与えている。オルタナティヴ・カルチャー、インディ/DIY精神(Do It Yourself=手に入らないものは自分で作ってしまおう、既成のものにとらわれないハンドメイド精神)の90年代を象徴する集団として各方面から注目され、彼らを取り巻くものが即ビジネスに繋がってしまうという状況があるが、ごくマイペースに、始まった当初の仲間内のラフなノリを第一とする姿勢こそが90年代的と思う。
WEB 


[ひ-007]
ヒステリック・グラマー
hysteric glamour
 北村信彦デザインによる、キューティ少女のカリスマ・ブランド。ティーンをナメているのかとかく目先の流行や勢い、時にはコピーでお茶を濁すこともあるキューティ系と呼ばれるブランドの中にあって、独自のカラーを長期間にわたって保ち続けているのは、変わらぬ支持を受けるのにふさわしい。その秘密は、やはりデザイナー北村氏の明確な「好み」にある。アメリカの70年代、及びその頃の音楽に徹底的なこだわりを見せる。フォルムよりプリント重視の考え方や、服の見せ方なども全てここに通じている。にもかかわらず今の少女にも人気な理由は、要所要所にパンダやキノコなど、フィンガー5世代も微笑む「お茶の間70's」のモチーフを登場させるユーモアにある。この辺りが海外のミュージシャンにもファンが多い理由だろう。北村氏自身の人徳によるところも大きい。あと、ヒスといったら忘れちゃいけない大偉業、定期的な刊行物『hysteric』、この4号と6号は何と350ページにも及ぶ森山大道全撮影。しかもヒスの服とは全く関係ない写真なのである。めくってもめくっても、ノーファインダーのオリンパス・μミューで撮りおろされた森山大道の写真が延々と続くさまは圧巻である。93年にしてこの勇気あるエディトリアルは、当時各方面で評判になった。写真の好きな北村自身もついに今年、自ら撮影した写真集を出版した。
WEB Hysterics
http://www.cyber66.or.jp/DH/laforet/hysterics/hys_index.html


[ひ-008]
ピチカート・ファイヴ
pizzicato five
 日本が世界に誇るポップユニット。80年に結成されて以来、幾度となくメンバーチェンジを繰り返し、ついにボーカルの野宮真紀が在籍しながらも小西康陽自らソロアルバムと公言した最新作『HAPPY END OF THE WORLD』のヒットや、パフィーの吉村由美をはじめとした、数多くのメジャー・アーティストへの曲提供など、小西康陽の才能はもはや日本のオルタナティブとして語るには、既に抵抗感があるくらいだ。しかしアメリカやヨーロッパの国々における彼らの人気の高さを考えてみると、ありきたりで恐縮だがジャパニメーションやキティー等と同様に、欧米の人々にとって日本文化が、西洋文化のオルタ・カルチャーとして機能していて、ピチカート・ファイヴもキッチュでオルタティブな存在として、日本人が考えているより、その影響力も大きいのではないだろうか。
 ロバート・アルトマンの『プレタ・ポルテ』や、ファッション・デザイナー、アイザック・ミズラヒのドキュメント映画『アン・ジップト』などでのサントラ起用や、全世界的な一大ムーブメントとなったラウンジがヨーロッパを中心に盛り上がり、カミンスキー・エクスペリエンスやイージーチューン、ハモンド・インフェルノなどの有名なラウンジDJが、ピチカート、テイ・トウワの楽曲はもちろん、かつて小西や、コモエスタ八重樫らが盛んに発掘した和物歌謡などをマニア的にチェックしていたりと、ヨーロッパのピチカート・チルドレンと呼んでもよい程で、ピチカートが振りまく「趣味のよい悪趣味感覚」が今や世界を1分間に45回転で回している。
WEB *********records,tokyo
http://www.c2i.co.jp/col.me/readymade/


[ひ-009]
ヒップ・ホップ・シーン(日本)
hip-hop scene
 日本のヒップ・ホップの現状。昨年、重鎮ECDの呼びかけにより始まった「さんピンCamp」。これは総勢30名以上のアーティストが集結して日比谷野音で行われた日本初の野外ヒップ・ホップ・イヴェントで、その当日までの歩みと共に日本のヒップ・ホップ・シーンのある瞬間を記録したドキュメンタリー・フィルム、またこの企画に賛同するアーティストたちの曲を収めたコンピレーション・アルバムの名前である。ヒデボウイとオオスミ二人のMCが好対照なシャカゾンビ、日本人離れしたスケール感を感じさせるブッダ・ブランド、最重要グループの一つライムスター、浮揚感あるトラックが特徴のソウル・スクリーム、傑作「証言」を生んだランプ・アイ、マイクロフォン・ペイジャー(現在活動休止中)のMURO、赤い目をしたフクロウことユウ・ザ・ロック、もはや説明不要のキング・ギドラ、シャカゾンビ+ブッダブランドによる合体ユニット大神、HAZUなどが出演、ドシャ降りにも負けない熱演を繰り広げた。
 その1週間後には、同じ野音でスチャダラパーや脱線3、かせきさいだあなどL.B.NATIONクルー総出演の『大L.B.まつり』が開かれた。L.B.にはいとうせいこうらジャパニーズオールドスクーラーが切り開いたいわゆる文科系ノリを感じるのに対し、『さんピン』のメンツにはアメリカのヒップ・ホップが持つ戦闘性的な部分をも抽出した、男気系ノリを感じさせられる。『さんピン』に出演していたアーティストたちとL.B.クルーたちの間に表立った交流はないようで、リスナー層もはっきりと別れているのが実状ではあるが、西vs東のようにさんピンvsL.B.という抗争が繰り広げられているわけでもなく、どのアーティストを支持をするのかは個人の自由。この両派の盛り上がりを見ると、ヒップホップが完全に日本のカルチャーとして根付いたことを感じさせられる。一時期は冬の時代とも言われ、日本語でラップカルチャーは根付かない、とまで言われた頃を考えると、なんとも感慨深い。『さんピン』にも登場したDJ HAZUは名古屋をベースに活動、先頃イルマリアッチとしてデヴューを果たした。東京中心のシーンの中で地方のアーティストたちが徐々に浮上してきているようだ。また、ヒップ・ホップ=ブレイクビーツの進化形としてドラムンベースを捉え、ジャングリストにシフトするアーティストも出てきており、キミドリのKURO-OVIらはドラムンベースパーティをオーガナイズしている。
WEB alt.avex暴走列車' 97
http://www.avexnet.or.jp/jhiphop/index.htm


[ひ-010]
PDA
pda
 パーソナル・デジタル・アシスタントの略。アップルの社長だったジョン・スカリーの提唱による用語で、個人向けの携帯情報端末のことを指す。具体的にはNewtonやシャープのザウルスなど、一般に電子手帳と呼ばれているもので、主にスケジュール管理やアドレス管理、電子メールの送受信などを行う。携帯型のコンピュータは年々小型化される傾向にあり、現在ではA4サイズで3キロ程度のものをノート型、2キロ程度のものをサブノート型、1キロ程度のものをモバイル・コンピュータ、キーボードのついていない手帳サイズのものをPDAと呼んでいる。
 アップルが93年に発表したNewtonはペン入力による手書き文字認識を搭載し、業界の期待を集めたが、売り上げは伸びず、事業としては失敗したかに見えた。しかし、97年に教育用として販売が開始されたNewtonシリーズのe-MAtEが成功したのを受け、オラクルのラリー・エリソンが提唱したNC(ネットワークコンピュータ)のベースとなって蘇るのではないかという見方もある。また、日本ではビジネスマンをターゲットにしたザウルスが爆発的なヒットをして、FAXモデムやデジタルカメラ、WWWブラウザまで搭載したカラーザウルスが発表されているほか、電子メールとデジタル携帯電話の普及に伴い、マイクロソフトのモバイル用OSであるウィンドウズCEを搭載したモバイル・コンピュータが各社から続々と発売されている。
 PDAの普及はデスクトップパソコンとの連携が上手くいくようになったという背景がある。それまでの電子手帳はクローズドな環境だったため、データを共有化したり、再利用したりすることが難しかった。しかし、現在はIrDAなどの赤外線ポートを利用することでパソコン上のデータをPDAに送れるため、面倒なペン入力で長文の入力をする必要がなくなるなど、環境が進んできている。また、日常の連絡に電子メールを多用していると、外出先でメールをチェックしたくなることが増えてくるのも理由の一つだろう。
WEB Newton Infomation Index
http://www.sakabe.nuie.nagoya-u.ac.jp/newton/info/
WEB 絶好調、パワーザウルス
http://www.sharp.co.jp/sc/excite/zaurus/powerzaurus/index.htm


[ひ-011]
ビデオ鑑賞会
びでおかんしょうかい
 「AV(かTV)を一緒に見る会」という名目で集客する風俗店。90年代初頭から男性誌に紹介されるようになったが、最近では「裏ビデオ鑑賞会」と見立てた警察の摘発が入るため、「相互鑑賞会」「ホームパーティー」「大人のパーティー」などの意味深な名を掲げる店がほとんど。たいていはマンションの3LDKの部屋で営業し、客は仕込みの女性たちと一緒にテレビモニターを見ながら飲食、気に入った女性を店に指名すると別室で他のカップルと薄い布一枚隔ててプレイできるシステム。主にスポーツ新聞の三行広告で集客し、仕込みの女性には外国人を専門に起用する店もある。外国人専門店は低価格化や乱交、AF、ファック無制限などのサービス多様化の傾向にあり、日本人女性だけの店は美少女を多く起用する高級化の傾向にある。摘発を逃れるために会員制を敷き、マンションを転々とする店も少なくない。従来の風俗店にないアットホームな雰囲気と共犯感覚が、風俗通にとって魅力に感じられるらしい。
WEB 


[ひ-012]
Bボーイ
b-boys
 ヒップホップ・ゲームに興じる人々の総称であり、それ以上にメンタルな部分を重んじる言葉。元々は偉大なDJ、クール・ハークが70年代に発明したブレイク・ビーツに対して、独特の踊り(後のブレイク・ダンス)で応えた人々をブレイク・ボーイズと呼ぶようになり、それを省略してBボーイとなった。80年代になって、ヒップ・ホップ・カルチャーの広がりと共にアメリカ以外でもこの言葉が使われるようになり、日本では当初、バッド・ボーイやブラック・ボーイの意などと伝わったものである。今でこそ、ファッションを含めてヒップ・ホップの愛好者を全てBボーイと呼んでいる感すらあるが、本来は文字どおり規制概念を破壊(ブレイク)し、常に社会に対して鋭い牙を剥き出す精神をも持ち合わせた人々への敬称でもあったはずで、今のような大安売り的な使われ方は偉大な先駆者達には好ましくないことであろう。なお、女性に対してはBガールという呼称も存在する。
WEB 


[ひ-013]
100円で雑誌
ひゃくえんでざっし
 消費税導入後の日本において、ワンコインで物が買えることの便利さを改めて実感させてくれた地球に優しい新商売。青島都知事の段ボールハウス撤去政策により、自由人の皆さんが自立を迫られたことと、折からのエコロジー・ブームの追い風を受けて急速に発達を遂げた。拾子(ヒロコ)と呼ばれる人達が、電車や駅のゴミ箱に捨てられた雑誌類を拾い集め、集めた雑誌はJRや私鉄の駅前や構内で、雑誌の定価に関わらず一律100円で販売される。マンガ雑誌なら買ってから30分もあれば読み終わってしまうので、ゴミとはいえ、ほとんど新品同様。意外と抵抗感はない。95年の地下鉄サリン事件前後、駅構内からゴミ箱が撤去され、100円雑誌シーンは衰退したかと思われたが、現在では当日発売のマンガ雑誌はもちろん、文庫本や英知系ビジュアル誌、六法全書に至るまで、段ボールの平台の上で販売されている。新宿西口など乗降客の多い駅付近では一日に数十万円の売り上げがあるらしいというからスゴい。
WEB コミック売ります
http://www.geocities.com/Tokyo/Towers/9977/sale.html


[ひ-014]
ビューティージャーナリスト
beauty journalist
 現在の化粧品ブーム、コスメフリーク増殖の一翼を担った美容専門ジャーナリスト。もともと女性誌の美容ページで健筆をふるっていたエディターの中でも、論理的で説得力がある者が、折からのコスメブームで一気に表舞台に立った。これまでの、雑誌の美容ページの問題点(化粧法のわかりにくさ、あからさまなちょうちん記事、メイクアップアーティストの自己満足)を彼女らは時間をかけて軌道修正していった。一般女性の目線まで下り、ツールとしての化粧品やリアルな化粧法を説く水先案内人になった。「見せ方」にこだわり、信頼できるメイクアップアーティストと組み、写真ときっちり連動した記事は読みやすい。新製品のアピールも、タイアップがあったとしてもギリギリそれを感じさせない説得力がある。今や、齊藤薫や渡辺桂子ら一部のビューティージャーナリストはカリスマ的な支持を受けている。雑誌の顔出しはもちろん、好きな映画や本、バッグの中身までが興味の対象とされているのである。彼女らの勧める化粧品は店頭で売り切れが続出する。最近は彼女らは化粧品推薦人の枠を越えた活躍を見せている。齊藤氏は化粧品の企画開発にかかわったり、また独自の美容論をエッセイ的に独立した「読み物」として提示するなど。渡辺氏はインターネットのコスメページを開設したり、パーフェクTVの美容番組の構成を手掛けている。こうなると雑誌で「ビューティージャーナリストになるには」って特集が組まれるのも当然。女の新しい花形職業が増えた。こんなところにも化粧品爛熟時代を感じる。
WEB ビューティ&ヘルスサロン
http://www.mediagalaxy.co.jp/M/MOV/pharma/beauty/index.html


[ひ-015]
平田オリザ(1962年)
ひらた・おりざ
 静かな演劇を戦略的に展開する作・演出家。役者はボソボソ喋っているだけだし、事件どころかめぼしい事はなんもおこらない! それってつまらないを通りこしてショック!! というのが予備知識もなく平田作品を観た人の第一印象かもしれない。“さぁ、ここが見せ場です”と言わんばかりに、照明があたったり音楽が流れたりもしない。観客はただ役者の動きと会話の流れを追うだけ。しかし、何げない言葉に別なことを連想して話の流れが変わっていたり、誰にも聞き取られず空すべりするジョーク、隣同士で座るときの距離の取り方などなどを眺めていると、そこに日常や社会が凝縮されているような気分になってしまうのだ。そのために平田は、オーケストラのスコアを書くように同時多発するセリフを幾つかのパーツに分けて表記するなどの方法を開発、その作品が岸田戯曲賞を受賞するや“静かな演劇”ブームを巻き起こした。その後もワークショップや演劇論の執筆、地方公演などでその方法論を公開することで実証・強化している。その戦略的な全国展開も要チェックである。
WEB 芸術見本市
http://www.geidankyo.or.jp/infope/mihon/sanka029.htm


[ひ-016]
平野勝之(1964年生)
ひらの・かつゆき
 自主制作映画から転向した珍しい経歴のAV監督。個人映画的なテーマ、暴力的演出、繊細な編集を特徴とする。85年、ぴあ・フィルム・フェスティバルに『狂った触角』(8ミリ)で初入選して以降、『砂山銀座』(86年)、『愛の街角2丁目3番地』(87年)と3年連続入選という、前人未踏の記録を樹立し、自主映画界の若き才能として注目される。88年に『雷魚』を公開するが、その後商業映画界への接近はなく、不遇の時期を迎える。90年、初のAV作品『由美香の発情期 レオタード・スキャンダル』を発表、以後多くのAVを手掛けることになる。
 AV監督として注目されたのは、92年の『暴走監禁逆ナンパドライブ 水戸拷問』(V&Rプランニング)から。自動車の荷台に全裸の女性を乗せ、様々な肉体的苦痛を与えながら都内を走り回る同作をはじめ、地下下水道にAVモデルを連れて潜り込み本番させる『しごけ!AVギャル ザ・ガマン』、フィストファックと糞尿嗜好を追求した『ザ・タブー 恋人たち』など、常識を逸脱した設定と犯罪すれすれの演出で、異端派AV監督としての評価が高まった。95年の結婚と前後して、『アンチセックスフレンド募集ビデオ』(94年)、『わくわく不倫講座 楽しい不倫のススメ』(95年)、『わくわく不倫旅行 東京〜礼文島41日間自転車ツーリングドキュメント』(96年)など、両親や妻を含む家族・友人関係の日常にAVの現場を持ち込む“私AV”的なテーマを描き続け、AVと一般映画の境界に風穴を開けつつある、90年代でもっとも注目すべき映像作家の一人である。
WEB Web about K.Hirano.
http://www2.saganet.ne.jp/otb/vandr/katu/katu.html


[ひ-017]
平間至(1963年生)
ひらま・いたる
 90年代後半の写真のメインストリームは、CDジャケット、ポスターなどのプロモーションに代表される「音楽系のビジュアル」と言われるが、ことこの分野において平間の人気は絶大なものがある。作品集のタイトル『MOTERDRIVE』(光琳社)に代表されるように、平間は“撮りっぱなし”で被写体の活き活きとした動きや表情をキャッチする。その作風は、音楽文化に先導される時代の気分にがっちりと符合し、そこかしこに平間の写真が溢れることになった。もともと家業が営業写真館であったこと、高度に技巧的な撮影を好む写真家・伊島薫のアシスタントをしていたことなどへの反動から、自然に自分のスタイルが生まれたと、彼は自己分析している。
 活躍の分野は音楽、ファッション、広告など多岐に渡るが、とくにエディトリアルの分野で華やかな活躍が目立つ。アートディレクターの中島英樹との長年のコラボレーションも印象深い。『ロッキング・オンJAPAN』『CUT』などを舞台に、内外のミュージシャン、映画スター、スーパーモデルなどを精力的に撮りまくっている。
WEB 


[ひ-018]
ビリー人形
びりーにんぎょう
 子供の頃、いくらお母さんに叱られてもお人形遊びが大好きで、G・I・ジョーやケン(バービーのボーイフレンド)の洋服を脱がせては、そのツルンとした股間にがっかりしていた……そんなゲイ達の夢の結実。「解剖学的に完璧」を謳い文句に、愛嬌あるオヘチャ顔と「いかにも!」なファッション、その下にはマッチョなボディと立派なオチンチンを秘めたゲイ・フィギュア。ニューヨークのとあるアーティストが手作りのコレクション・ドールとして92年に生み出したビリーは、275ドルという高値がつけられていたにも関わらず完売。今や数倍のプレミア価格で取引されるほどの人気商品となった。ビリーの売り上げの一部はエイズ・チャリティに寄付されたが、それでも会社を設立するだけの充分な収益が残された。創立されたTOTEM社はビリーの廉価普及版を作り、世界中のゲイに向けてセールスを開始、好調な売れ行きを示している。ゲイによるゲイのためのゲイのお人形が、立派なビジネスとなり得たのだ。
WEB 


[ひ-019]
HIROMIX(1976年生)
hiromix
 95年、ビッグミニで撮影した写真を、カラーコピーにしアルバム化した作品集でキヤノン写真新世紀・荒木賞を受賞。高校卒業と同時に、90年代後半に突出した「女のコ写真家」の代表としてメディアに大々的に取り上げられ、一躍時の人となる。デビュー当初はコンパクトカメラを使う撮影のスタイル(=ヘタウマ)や、古い世代の写真家的語法とは異なったカジュアルさ、自由さ、そして若い女のコであるということばかりが注目されていたが、『ロッキング・オンJAPAN』、『H』や『オリーブ』などのマガジンワークで、その実力の程を確実に認知させていった。いまやそのテクニシャンぶりはよく知られるところである。
 97年9月には日本人ファッションモデルのポートレート集『JAPANESE BEAUTY』(マガジンハウス)と、風景写真ばかりを集めた大判の作品集『光』(ロッキング・オン)を発表。同時に開催した写真展「HIROMIX'97」で、新しいイメージ戦略を展開している。またパリで個展を開催するなど、日本のガーリー・カルチャーの旗手として海外でもその名は知られている。また余談だが彼女の写真家名・HIROMIXが、田島一成=TAJIEMAXからイメージを得ていることはあまり知られていない。本名は利川裕美。他の作品集に『girls blue』(ロッキング・オン)など。
WEB HIROMIX
http://shrine.cyber.ad.jp/~takemori/mediajunkies/hiromix.html
WEB HIROMIX Exibition
http://www.canon.co.jp/cast/ncp/exhibit/hiromix/hiromix.htm


[ひ-020]
ビンポセチン
vinpocetine
 ゲーマー必携!の知覚認識力向上薬。ツルニチソウという植物から抽出され、脳>内の血液循環増加と、のエネルギー源であるブドウ糖の活用を促進する。それによっての新陳代謝が活発になるため、脳梗塞の後遺症や脳>動脈硬化症の治療に使われてきた。販売元の資料によると、めまい、頭痛、血圧異常をはじめとして、言語障害や記憶力障害にいたるまで改善されたという。また、一般人対象の実験でも記憶力増強の結果が出ており“強力な記憶増強剤”として販売している業者もあるほど。記憶増強目的での使用量の目安は、5ミリグラムの錠剤を1日に1〜2回の服用。飲んですぐに効果が現れるという即効性はないようだ。
 使用者数人の話では、ビンポセチンは劇的な変化を感じる薬ではなく、毎日飲み続けて1週間〜1カ月程度経過した頃から、記憶力・知覚力の向上を徐々に感じ始め、とくに格闘・シューティング系アクションゲームで反応がすばやくなり、服用以前より高いスコアを上げることができた、という。もっと明らかな効果を感じたい向きには、プラミラセタムと同時服用するという手段がある。違う作用を持つ薬同士を服用すると、相乗効果で通常よりも遥かに大きな効きめを感じることができるのだ。ただし、効きすぎると頭がボーッとしたり記憶力が鈍ったりと逆効果なので、ブレンドして飲む場合には通常よりかなり少な目の分量にする必要がある。もちろん個人差はあるが、例えばビンポセチン0.25ミリグラム(1/2錠)+プラミラセタム150ミリグラム(1/4錠)といった具合に。
WEB International AntiAging Systems
http://www.smart-drugs.com/


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