[や-001]
やおい
やおい
 既存のマンガやアニメなどのキャラクターを使って、自在に物語や設定をリミックスした同人誌マンガ作品。その内容を「ヤマ(盛り上げるシーン)なし・オチ(結末)なし・意味なし」でもよしとすることから、そう総称された。80年代初頭に半ズボンの少年を愛好する少女たちの嗜好性が、少年愛をテーマにした少女コミックへの嗜好性と結びつく形で、美少年キャラどうしをホモカップルに見立てるマンガに昇華させた作品がコミケで人気を博すようになり、その後カップルの行為を通して恋愛、セックスを語り、純文学にまで高めた作品も作家やキャラの性を問わず、登場するようになった反面、男性作家による美少女キャラを使ったエロ、グロ、ナンセンスなやおいも続々登場。一方『美少女戦士セーラームーン』の人気で、女性作家がレディコミまがいのレズ系やおいを描きだしたことは画期的だった。とくにコミケで壁際に出店できる大人気の同人作家たちは「コミケ成金」と呼ばれ、一般商業誌にもマンガや耽美派小説、評論を発表するなど、市場拡大・確保を果たしている。現在では、二次元キャラのみをやおいに登場させるのではなく、政治家や宝塚、創立者の死で話題になったブティック「君島」兄弟、ビジュアル・ショック系の人気のバンドメンバーなども、やおいの登場人物になっている。97年夏のコミケでは、一部に神戸小学生殺人事件の「酒鬼薔薇聖斗」のやおいが出回るという噂があったが、実際にはなかったようだ。そんな噂が立つのも、それほど、やおい作品を含む同人作品の幅が広がっているという証左だろう。
WEB 


[や-002]
野外大規模ライブ
やがいだいきぼらいぶ
 夏に野外で行われるフェスティバル形式のイベント。夏のヨーロッパには数千人規模から十万人規模まで20以上ものロック・フェスティバルがあり、アメリカには国中を回るロラパルーザというロック・フェスティバルがある。単純に考えればヨーロッパ大陸やアメリカでは毎週末にどこかで何かをやっている計算になる。こうしたフェスティバルの原型は、60年代から続くヒッピーのフリー・フェスティバルにある。69年のウッドストックは有名だが、75年に始まって今も続いているイギリスの代表的なフェスティバルであるグラストンベリー・フェスティバルも、はじまりは反政治色の濃いフリー・フェスティバルだった。現在のフェスティバルは、広大な会場にロックからテクノまでいくつものステージが作られ、ボブ・ディランといった大御所から名だたるロック・バンド、テクノのDJまで、場合によっては150組以上ものミュージシャンが出演するほど大型化しているものもあり、常連のバンドが掛け持ちで各地のフェスティバルをツアーをするような場にもなっている。日本でもヒッピームーブメントをベースにしたフェスティバルやその他のフェスティバルがいくつかあったが、ここ数年は大きなものは開かれていなかった。97年夏の富士ロック・フェスティバルは不運にも台風に見舞われて二日目の公演が中止になった。
WEB Woodstock
http://ux01.so-net.or.jp/~m-sasaki/woodstock.html
WEB 野外フェス ヨーロッパ
http://www.digitaal.com/festival/


[や-003]
矢口史靖(1967年生)
やぐち・ふみやす
 若手期待のコメディ作家。8ミリ映画『雨女』で90年「ぴあ・フィルム・フェスティバル」(PFF)グランプリを授賞した後、続いてPFFのスカラシップ作品となる『裸足のピクニック』を製作・監督。2000万円という低額予算で撮られたこのコメディは、キセル乗車がバレたのをきっかけに不幸のつるべ打ちに合ってしまう普通の女子高校生を軽快に描いて好評を得る。さらにぴあと東宝の提携になるYESの製作による『秘密の花園』を発表。お金が大好きの銀行OLが、樹海の水中に沈んだ5億円をゲットするために多摩川大学に入学して、地質学・水泳・ロッククライミングで大活躍、ハッピーエンドを迎えるという現代のホラ話をファニーに描いている。その形態ギャグのモードは周防正行の一連の作品を連想させるが、こちらは女性を主演にすえた軽やかさと明るさが、キャラクターのおかしさとマッチして内外でも好評、次回作を待望される若手作家の一人である。
WEB ひみつの花園
http://www.acom.co.jp/vc/hot_menu/video/hot97v9/9hot_5.html


[や-004]
ヤバい
やばい
 若い男性が多用する多義語。実に漠然とした言葉で、具体的に表現するのはかなり困難を要するのだが、しいて言えば、いい悪いに関わらず、感情のメーターが振り切れた状態を指す。例を挙げると、完成度の高い新作フィギュアを目の前にして「ヤバい」。田中邦衛が長渕剛の歌を熱唱するわけのわからない状況をながめて「ヤバい」。アル・ヤンコビックの一連の仕事を見て「ヤバい」といった具合で用いられる。応用として、さらに過剰なモノに対しては「激ヤバ」といったふうに用いることもある。ヒップホップ系の用語である「ILL」も近いニュアンスを持つ言葉だ。女性が「ヤバい」を用いる場合は、「ヤバい」本来の意味である、マイナス要素的意味合いと考えていいだろう。
WEB 


[や-005]
山田花子(1975年生)
やまだ・はなこ
 吉本新喜劇女優。コロコロとした容姿が買われ、ふりかけ、トイレ洗浄液など十数社のCMキャラクターに抜擢される。ほぼ同時多発的にCM出演が相次ぎ「CMの女王」「東の松たか子、西の山田花子」と呼ばれ、彼女の存在は一躍全国的に知れ渡る。また、これにともないバラエティ番組出演も一挙に増加。新喜劇での決め台詞「私に惚れるなよ」「私はエリザベスよ」が、いわゆる“ギャグ”として認識されるようになる。人畜無害ふうなキャラクターがお茶の間に受け入れられ、97年秋のドラマ『イブ』フジテレビ系)では、PUFFYとともに初の全国ネットドラマに出演が決まるなど、順風満帆に見える山田花子だが、まだ22歳ながらこれまでの道のりは凄惨を極める。小学生時代から空手を習い、高校時代はクラッシュギャルズに憧れ、女子プロレスラーになるべくジムに通う。ジムの月謝は毎朝4時から製パン工場でバイトをして作った。友人もおらず、いたって無口な山田花子は「明るい性格になるように」と知人の勧めで88年に吉本新喜劇入団。しかし笑芸に愛着がわかず、退団し上京。晴れて女子プロレスラーとなる。しかし練習中に頭蓋骨がパックリ割れ記憶喪失に。プロレスラー生命を絶たれ、再び新喜劇に。以降、新喜劇伝統の「思い上がったブス」役を正統継承し、現在に至る。もしプロレスを続けていれば試合中に負傷、死亡したプラム麻里子の二の舞になっていたことは充分考えられる。山田花子につきまとうもう一つのキャッチに「天然ボケ」があるが、これは正しくない。彼女がボケるのは、その役割を与えられた時だけだ。つぶやきシロー同様、「天然ボケ」という単語を濫用する風潮はこれからのタレントの生命を縮めかねない。
WEB デジタルマンスリーよしもと
http://www.yoshimoto.co.jp/digimon/index.html


[や-006]
山本政志(1956年生)
やまもと・まさし
 80年代無国籍映画の旗手。大学中退後8ミリ映画を作りはじめ、81年の16ミリ『闇のカーニバル』はベルリン映画祭やカンヌ映画祭でも上映された。その後当時ジム・ジャームッシュの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で有名になり現在『リビング・イン・オブリビオン』などの監督であるトム・ディチッロを撮影に迎えた『ロビンソンの庭』は、当時日本では先駆的だったエコロジカルな主題を扱っている。以後はアジア興隆に先駆けた香港ロケの無国籍アクション『てなもんやコネクション』で、このための劇場を渋谷に建設するなど話題になった。また南方熊楠の生涯についての映画を企画したが資金が集まらず中止。96年に新作『アトランタ・ブギ』を発表。これも前作に引き続いた無国籍コメディで、轟町3丁目の落ちこぼれの人々が金儲けのため運動会に出場しようとして、金持ちの1丁目と対決するという、ベン・ジョンソン、岸谷五郎、富田靖子らアミューズの豪華ゲスト50人が出演している。
WEB 山本政志監督作品ビデオリリースのお知らせ
http://www.express.co.jp/ALLES/4/video_j.html


[や-007]
やらせ
やらせ
 事前に打ち合わせて自然な振舞いらしく行わせること。また、その行為(『広辞苑第四版』より)。転じて、テレビ界の業界用語に。最近では、「進め!電波少年」の企画「猿岩石ユーラシア大陸横断ヒッチハイク」において途中飛行機に乗っていたとして「これはやらせか!? 演出か!?」と問題になった事件が記憶に新しい。猿岩石に関しては、最終的に視聴者が下したのは「バラエティとして非常にクオリティが高くオモシロイので、ンなのどっちでもいーじゃん!」という至極シンプルな判断であった。事実、それ以降も『猿岩石日記』はベストセラーを続け、歌手デビューしてからの彼らの快進撃ぶりは万人の知るところである。しょせん、バラエティなんだから。あの時「やらせだ!」と騒ぎたてた連中は、当時ナンシー関も指摘したようにホントは猿岩石の死に顔が見たかったんだろう。そこまでやらせる奴、そりゃキチガイだって。
WEB 


[や-008]
ヤングレディース誌
やんぐれでぃーすし
 “大人の”女性向けとして出発したレディースコミックと従来の少女マンガとのギャップがあまりにも大きくなり過ぎたために、そのギャップを埋めるべく登場した高年齢層(10代後半から20代後半)向け少女マンガ誌の総称。『ユー』の妹雑誌として創刊された『ヤングユー』(集英社、87年創刊)をその嚆矢とし、その後に続いた『ヤングロゼ』(角川書店、90年創刊)『フィールヤング』(祥伝社、91年創刊)などがすべて「ヤング」の名を冠していたためにこの名称で呼ばれる。これらの雑誌が出たことで、かつては老舗のレディース誌であったが、官能離れによりむしろヤングレディースに近くなった『ビーラブ』、いままで少女マンガではあったが、独自な路線で従来よりは若干年上の層を狙っていた『mimi』『ぶ〜け』『プチコミック』なども巻き込んで、高年齢層向けの少女マンガ誌は、女性誌の新しい一大ジャンルを形成するに至った。その後、『mimi』を枝分させる形で『kiss』(92年、講談社)が創刊され、なにより「少女マンガもオトナになる」というキャッチコピーで創刊された『コーラス』(94年、集英社)の参入でその勢いは頂点に達し、この分野は、「いまや女性向けコミックでいちばん勢いがあって面白いのは、ヤングレディース」と言われるほどの活況を呈することになった。
 内容的には、それぞれの仕事や恋愛、あるいは様々な人間関係など、日常的で現実的な題材を扱ったものがほとんどで、完全な非日常を扱った幻想ものやSFものは皆無といってよい。しかし、仕事にしろ恋愛のあり方にしろ、かつての女性向けコミックで描かれたよりはるかに地に足がついており、そこには、現実と確かに切り結び始めた女性たちの姿が感じられる。また、結局は主婦層がその主な読者となったレディースコミックとは対照的に、ヤングレディースは明らかに独身、あるいは一緒に住んでいる恋人なり夫なりはいても、自分の人生はそれが全てではない、と仕事を続けている女性をターゲットとしており、こうしたジャンルが力を持ってきたこと自体、もはや女を「まだ結婚していない女=少女」と「結婚した女=主婦」との二種類に分けてすますわけにはいかなくなった時代を反映しているといってよい。ヤングレディースは、そうした、いわば新しい生き方を模索している女性たちの「生き方のカタログ」的役割をも果たしているのである。
 具体的な作品としては、たとえばTVドラマにもなった槙村さとるの『おいしい関係』『イマジン』、原田梨花の『満月の夜』などが、そうした“新しい関係”を描いた代表作だといえよう。加えて岡崎京子、桜沢エリカなどの作家もこれらの雑誌を拠点として描いており、最近評判の安野モヨコも『フィールヤング』の連載が出世作である。また、逢坂みえこ、望月玲子、高田祐子などの作家も、このヤングレディースという分野を得て、よりその真価を発揮できたと言える。だが、いまのところこの分野は、突出した少数の才能が、きわだった作品を書いているというよりは、全体に「粒が揃っている」という印象が強い。とはいえ、すでに淘汰も始まっており、96年12月に『mimi』が、97年8月に『ヤングロゼ』が、それぞれ休刊している。
WEB HAKUSENSHA
http://www1.mediagalaxy.co.jp/hakusensha/
WEB 講談社BOOK倶楽部
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/
WEB 
http://www.shodensha.co.jp/


[や-009]
ヤン富田
やん・とみた
 音楽王。また数少ないプロのスティール・パン奏者としても有名だが、彼がここ15年の間に行ってきた音楽活動が、どれだけミュージシャンやDJ、そしてリスナーに影響を与えたかは、計り知れない。自身のバンド、タイニー・エキゾチカ・ボーイズを解散した後、メロンの中西俊夫や桑原茂一との出会いから、ピテカン系音楽家との交流が始まり、83年に中西率いるウォーター・メロン・グループに参加。マーティン・デニーやレス・バクスターといった作曲家のエキゾティックな音楽をカバーしたアルバム『COOLMUSIC』を発表。ウォーター・メロン解散後はヒップ・ホップに接近し、数多くのヒップ・ホップ・トラックを制作。しかし当時から彼は、その豊富な音楽的語彙と分析力によって、ヒップ・ホップと現代音楽、ひいてはミュージック・コンクレートとの共通性を早くから見抜いていた。88年、エンジニアの宮崎泉と共に、プリ・プロダクション2カ月、録音8時間で制作したと言われるジャパニーズ・ヒップ・ホップの金字塔、いとうせいこうの『MASS/AGE』をプロデュース。いわゆる大ネタは使用せず、ファラオ・サンダースやサン・ラといったフリージャズ系のレコードをネタとして数多く使用し、また電子音を多用したスピリチュアルなトラックは、10年近くたった今も、古くなるどころかこれを超えるトラックは出現してないような気さえする。
 そして90年に彼自身の究極の制作環境としてスタジオ「オーディオ・サイエンス・ラボラトリー」を作り、以後ソロとして、サン・ラやジョン・ケージの「4分33秒」までカバーした2枚組CD『ミュージック・フォー・アストロ・エイジ』(92年)を皮切りに、自分の心臓に聴診器を当てて、心音を楽しむ究極のDIYアルバム『ハート・ビート』(92年)、なんと300枚限定のライブ盤『ハウ・タイム・パッシーズ』(94年)、ロマンティックなスティール・パン・サウンドが堪能できる『ハッピー・リヴィング』(94年)の4枚のアルバムを発表。そしてキュートな歌姫キャロライン・ノヴァクをフィーチャーした架空のポップグループ、ドゥーピーズをプロデュース(?)し『ドゥーピー・タイム』(95年)、ミニアルバム『ドゥーイッツ!』を連続リリースした。ミュージカル・マエストロとしてのヤン氏の評価は、日本において全く揺るぎないわけだが、近い将来、これらの作品を通して、海外でもヤン・ワークが評価されることは間違いないだろうし、ファンとしてはそうなって欲しいものだ。
WEB 音楽家ヤン富田インタビュー
http://www.theeweb.ad.jp/~dune/yan/0001yann.html


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