[よ-001]
洋画吹き替え再評価
ようがふきかえさいひょうか
 レンタルビデオの普及、衛星放送や深夜の映画放送と、家庭で洋画を字幕スーパーで見ることは、ごく普通のこととなってしまった。しかし、クリント・イーストウッド、ジャン・ポール・ベルモントは山田康雄、ショーン・コネリーは若山弦蔵、アラン・ドロンは野沢那智……と、吹き替えというカルチャー自体を再評価する動きが、このところ見られるようになった。WOWWOWが、わざわざ吹き替えの映画枠を設けたり、『吹替映画大辞典』(三一書房)といった本が出版されるなど、静かな盛り上がりを見せている。アニメ声優ブームが、若手女性声優のアイドル的人気であるのとは異なり、『ミスタ・ブー』や『おかしなおかしな石器人』の広川太一郎の名吹き替えを称えてみたり、『スター・ウォーズ』初放映時の渡辺徹、松崎しげる、大場久美子による吹き替えを嘆いてみるといった具合に、「声優=アニメ」という現在の風潮を憂う結果の動きである。しかし、この吹き替えという文化も、字幕コスト安のあおりを受けて消えゆく運命なのかと感慨にとらわれもする。
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[よ-002]
吉本ばなな(1964年生)
よしもと・ばなな
 小説家。以前、村上龍氏と話していて、ばななはハウス(ミュージック)なんだよと言われてはっとした。たしかにばななの文学は、漫画、小説、写真、音楽など、過去の様々な文化の総体を等価のものとしてとらえ、それをパズルのようにもう一度組み立て直したようなところがある。おそらくはそのあたりが、かつての、少女漫画を文章に置き換えただけ、という批判を招いたのだろう。しかし、それをいうなら少女漫画にかぎらず、ばななは「あらゆるもののすべて」を文章に置き換える。これは徹頭徹尾、技術の産物なのだ。救済や超越のモチーフも随所に見られるが、それらはいずれも近代文学のように内面との葛藤において重層的に展開されることはない。あくまで言語の表層で、自動装置のようにイメージの組み替えと編集が心地よくなされているだけである。まるでDATで再編集されたような文体。「デジタル」という言葉がばななほど似つかわしい作家も稀である。
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