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本書の編纂にあたって

 サブカルチャーという言葉を使うとき、どうしても違和感を感じてしまう人は多いのではないだろうか。サブというからにはメインカルチャーがあるはずだ。でもそんなものどこにあるのか。確固として揺るがないメインカルチャーなんて、かつてはあったのかもしれないが、少なくとも今の日本にはどこにも見あたらない。だったらサブカルチャーなんてものはないのではないか。
 広辞苑にサブカルチャーという言葉が収録されたのはようやく第4版からだった。その意味は「正統的・支配的な文化ではなく、その社会内で価値基準を異にする一部の集団を担い手とする文化。下位文化」とある。与党に対する野党のことのようなものか。しかしいまやどっちがどっちかわからない。いまひとつ意味がはっきりしないのである。
 なのになぜかサブカルチャーという言葉はいまだによく使われる。サブカルなんてさらに矮小な言い方さえも使う。やはりこれはおかしいのではないか。

「ぼくたち」の消息

 もともとはアメリカ直輸入のサブカルチャーというものがあったのだろう。ちょうど70年代の雑誌『宝島』に代表されるような。それは音楽(ロック・ジャズ)を中核にして、旅や精神世界やドラッグや文学や詩やサイケデリックやエコロジーやオカルトやフェミニズムや映画などなどがそうだったのだろうと思う。
 例えば、当時の『宝島』では、そうしたサブカルチャーに巻き込みたい読者を「ぼくたち」といい、「シティボーイ」とも呼んだ。それは、まだイデオロギーとしてあった左翼=資本主義否定に対するさわやかなカウンター、つまり都市生活や商品世界を享受することを肯定してもいいじゃないかという意味だろう。
 その後、80年代という大消費時代を迎えて、ほとんどの若者雑誌はカタログ雑誌となり(そのルーツは「ホールアースカタログ」を模した別冊宝島1号の「全都市カタログ」であり、『ぴあ』だろう)、読者の主体である「ぼくたち」があふれた。それが90年代に入っても戦略的に「ぼくたち」を使う『SPA!』に行き着いたのだと思う。
 より良く面白く生きるために「使う」情報を提供していたはずの「全都市カタログ」が、なぜか「買う」情報一色の『ポパイ』のような雑誌になっていったことが、日本のサブカルチャーの行方を象徴している。

Gショックとナイキと501XXと

 そして、90年代に入って登場した若者雑誌『BOON』になると、「ぼくたち」は究極の、ものそのものの言葉“即ゲット”に至るのである。つまりこうともいえる。日本のサブカルチャーの行き着いた果てが、Gショックにナイキのハイテクスニーカーに501XXであると。
 確かに意味づけは出来るだろう。Gショックは安くてハイテクでメカニックで付加価値的にエコロジー(世界珊瑚礁保護協会オフィシャルなど)とか何でもつけられるイコン(松本零士の「コックピット」的とも)、ナイキはもちろんマイケル・ジョーダンなどの様々なのスポーツ&文化的イコン+反重力のイメージ(もちろんガンダム的モビールスーツ装着感覚とも)、501XXこそ説明不要のアメリカ製サブカルチャーの最高のイコンだろう。そうしたサブカルチャーを具現するモノを誰でもが安価にカジュアルに手に入れてることが出来る経済と文化の段階、それが今という行き着いた時点だと【*注】。
 でもそんな意味づけは、どうでもいい。じゃあ、日本にはいまだ“消費”しかないのか、というと90年代に入って風向きは変わってきたと思う。それはパーソナルコンピュータとインターネットの普及、「全世界同時渋谷化」(川勝正幸氏がいわれている意味と大きくずれるが、広義にはケーブルテレビや衛星放送、HMVやタワーレコードが全世界主要都市に行き渡った=サブカルチャー商品の情報伝達のインフラが整備され、世界規模のサブカルチャー消費市場ができたということ、とする。例えばピチカート・ファイブの人気もその文脈と読む)などによるものだ。
 つまり膨大な情報伝達が多方向、双方向になって、明らかなメインストリームがなくなり、傍流ばかりが無数に枝分かれしていっている。ちょうど島宇宙が無数に出来て、その一つの島宇宙は隣とはまったくつながりはないが、はるか何億光年とは密接につながっていたりとかするような、傍流文化がリゾーム状になって活性化している状況が少しずつであるが見えてきた。
 想像してみよう。あのHMVやタワーレコードの音楽ソフトの10年前には考えられなかった壮絶な種類と量の数、また100を超えるケーブルテレビや衛星放送のチャンネル。それぞれに夢中になっている人の層と、それらをつなぐ電脳ネットワークの無数の増殖を。

【*注】山川紘矢、吉福伸逸、ケンイシイなどのコラムを連載し、ニューエイジ+テクノのコンセプトで始まったマガジンハウスの雑誌『リラックス』が後にたどっている動向が正に象徴的。

非カタログ、非マニュアル

 正当なメインカルチャーが存在し、それゆえに確固としたサブカルチャーの伝統があるアメリカでも、そうした傍流ばかりになってしまった状況をふまえて、90年代の文化状況を800のキーワードでまとめた「オルタカルチャー」(スティーブン・デイリー&ナサニエル・ワイス編書/邦訳・リブロポート)が出版された。
 なぜオルタなのか。それはアメリカでは80年代のオルタナティブといわれた音楽や文化の流れもあるが、もっとも大きいのは、インターネットのニュースグループでジャンル化されないグループを総称して「alt.オルタ」(altanative=もう一つの、非本流の、傍流の)というからだ。そこが量質的にも膨大にあり、様々なオルタナティブなものにあふれているからだ。例えば、alt.binary.picture.eroticaといえば、世界中の無修正エロ画像をダウンする人に知られているもっとも高名なキーワードである。
 そして何よりこの書が優れているのは、いわゆるハイパーテキストにしたことだ。各キーワードには調べられる限り、インターネットのURL(アドレス)が付記され、またテキストはすべてWEB(ホームページ)上で公開されている。
 本書もその優れた試みに従った。すべてのキーワードのテキストは、関連のURLも含めてすべて、オルタブックスのWEBに公開されている。WEB上ではキーワードは相互にリンクされ、関連のURLをクリックするだけで、読者は果てしなく情報を掘っていける。急速に充実してきた日本語のものだけでなく、世界中のホームページのURLが掲示されているので、どこにたどり着くか、誰に出会うかは、すべて読者の手にゆだねられている。
 またキーワード中に出てきた他のキーワードは太字で示され、クリックすると他のキーワードに飛び、またそこに出てきた他のキーワードに飛ぶということも延々と続けることができる。関連のないジャンルが意外なところでつながっていることに驚かれることも多いと思う。その意味でこの本は、アンチ・カタログ、アンチ・マニュアルなのである。
 ところでキーワードの選択基準をどう定めたか。実際のところ明確なものがあるわけではない。編集者とライターが現時点で面白いと思ったもの、未来があると思ったもの、少なくとも何千人以上のファンがいるだろうと思われるもの、問題にすべきもの、などなどあげていってまとめたにすぎない。何々が入っていないと文句のある方読者もおられるだろう。それに対してはその通り、というしかない。ただ、その足らないと思われたキーワードに関連する項目を参照し、そこのリンクやURLからたどっていけば、必ず目的のことがらに達すると思う。それでご勘弁いただきたい。

マイブームの嵐

 この一見、バラバラな600余りのキーワードを俯瞰した時、何を感じるだろうか。相変わらず、“消費”という言葉が思い浮かんでくるのか、それとも違う別のことなのか。はたしてやはり「インターネットは空っぽの洞窟」なのか、いまや40万人というウッドストックの人数と並んだコミケは、最終消費の空虚なパビリオンなのか。
 ある事情通は「オルタ・カルチャーって日本でいうとマイブームのことじゃない」と語った。そうするとこのキーワード群は“マイブームの嵐”((c)みうらじゅん)といえる。
 あるものをオルタカルチャーと呼称すること自体に意味はないという反論もあるだろう。単にサブカルチャーを言い換えただけではないかと。しかしあるジャンルに当てはめること自体が無効であるという意味において、オルタナティブという言い方は有効に思える。少なくともサブカルチャーよりは。

(オルタブックス編集部・97年10月) inserted by FC2 system