ジェネレーションA

ナサニエル・ワイス

 ニューヨーク、イースト・ヴィレッジにある私のアパートからほんの数ブロック以内で、ケロケロケロッピの鉛筆ケースや、ウルトラマン腕時計、タマゴッチ・Tシャツ、AKIRAのホビー・モデルを買うことができる。これらが非常に価値の高いものである大きな理由は、それが外国のものだからだ。特に日本のポップ・カルチャー(ジャパニーズ・ポップ)は、このところアメリカでは非常にヒップなものとして捉えられるようになってきている。それは日本文化が千年単位という膨大な歴史を持っているという理由もあるが、一方で反語的になるが、それが常に未来的だということでもあるからだ。

 アメリカにおける90年代若者文化へのアジアン・ポップの膨大な影響は、アジア系アメリカ人たちのアイデンティティが膨張するのと同様に大きくなりつつあり、またそれはまだ人々が慣らされていない文化への非常に新鮮な味わいともなっている。

 両者が最高に混ざりあった一例としては、「ジャイアント・ロボット」がある。これは、ロス・アンジェルスで発行されているジーン(雑誌)で、ウエスト・コーストのスケートパンク・スタイルと香港アクション映画のスターと日本のジャンク・フードのことを同時に取り上げるような雑誌だ。地元では「ジャイアント・ロボット」の編集者は、今では使われていない第二次世界大戦の収容キャンプでスケートボードをし(彼らは、そこで50年前のグラフィティを発見し興奮する)、日系アメリカ人フィギュア・スケートのスター、クリスティー・ヤマグチ選手が登場する全米向けのミルクのコマーシャルを好むような白人の少年たちをののしる。このジーンはアンダーグラウンドでヒットとなり、社会学者、スティーヴ・ドゥービンを刺激し、「ロス・アンジェルス・タイムズ」紙に「サブカルチャーは、素晴らしいアメリカのポップ・カルチャーをリサイクルすることにあきあきしていたのかもしれない」という論文を掲載した。

 アイデアを取るために東京や香港の動きをスキャンしているのは、クエンティン・タランティーノがコピーしたものをコピーしているハリウッドの監督だけではない。文化的な差についても、ドゥービンは「ポップ・カルチャーは、グローバルな視点を持って見なければならないだろう」と観察している。


ジャパニーズ・ポップの台頭

 このイースト・ヴィレッジ界隈では、あらゆる面においてアジアン・ポップは念入りにマーケティングされ、ブランド志向の消費形態であるアメリカのコマーシャリズムと比べて、非常に重要で活気のあるものとして受け取られている。


 去る9月、MTVが毎年行っているアワード番組で、漢字をスタイリッシュなタッチで使用していたのもそうした理由だろう。クリーンなホワイト・ボードの上に描かれたシンプルで黒の日本語の文字は、どこかアヴァンギャルドな雰囲気を醸し出していた(アメリカ人はアヴァンギャルドが好きだ)。実際、アメリカの視聴者は、無意味な象形文字を多分本当の情報を意味しているものだろうと考える。たとえ私たちが漢字を解読できなくても、それがそうした意味をもっているということを知識として知っているからだ。

 ジャパニーズ・ポップの影響は、小説の世界だけではない。『スピード・レーサー(邦題「マッハGoGoGo」)』は、70年代にアメリカ全土で広く放映され、主人公は白人のメインストリームの間で、同時代的なアイデンティティを生み出した(なぜアメリカでは、幼児化を象徴する言葉として“ジャパニーズ・ポップ”がしばしば使われるのだろうか。その姿勢はあたかもアメリカが、バービー人形からケアベアーズにいたるまでの豊富な国内のかわいい商品を持っていないかのようだ)。 昨年、MTVはこれを再放送し、最近フォルクスワーゲンは、初めて車を買う購買層に向けて、このキャラクターを起用した。おそらく2010年あたり、どこかの化粧品会社は、その商品を女性にアピールするために「美少女戦士セーラームーン」のキャラクターを起用することさえあるだろう。

 ニュー・メキシコ州ロズウェルなどのUFO神話で有名な場所のように(UFOが着陸したといううわさの場所で、アメリカ軍は過去50年間それを隠し続けてきた)、日本文化も日々の生活の中で、UFO同様ミステリアスな点において、次第にエイリアンの代役的存在になりつつある。(96年のUFOを扱った大ヒット映画『インディペンデンス・デイ』の製作者たちは98年夏に向けて、ニューヨークを舞台にしたゴジラ映画を準備中だ)

 最近のジャパニーズ・ポップのファッション性にもかかわらず、80年代はアメリカがもっとも日本に魅せられた時代だった。80年代の外国嫌いの流れ(「トヨタがクライスラーを打ち負かす!」「日本人は戦争に負けたが、ロックフェラー・センターを所有している!」)は、ごきげんな90年代のグローバリズムの中にも依然潜んでいる(それはアジア問題がアメリカに元々ある人種問題、階級問題を回避することに一役かっていてもだ。テレビのニューズ番組におけるアジア系女性キャスターに対する反発を示すいわゆる「コニー・チャン現象」【*注1】にも表れている)。

 おそらくピチカート・ファイヴのようなバンドの魅力は、非常によく作られたポップであり、アメリカ人よりもレトロなラウンジ文化を巧みに取り入れ、ウイットに富んだものを作るところにあるのだろう。ミドリ【*注2】がスポンサーとなった10都市を周る北米ツアーを敢行するピチカート・ファイヴは、最新の日本からの優れた輸入品である。

 さらにアメリカと日本の流行で根本的にオーヴァーラップする例がある。それはアメリカ人と日本人のものの考え方であり、話し方でもある。『オルタ・カルチャー』を日本語に翻訳した吉岡正晴は、私に話しことばの項目で非常に似たものを発見し驚いたと語った。アメリカ人が、一つのセンテンスの中で気の短さや淡白さを表すために繰り返し使う「like(のような)」という言葉は、日本語でも「のような」とか「みたいな」として使われる、という。同様にアメリカの十代が使う疑問系の語尾を上げるイントネーションも、日本の傾向と一致する。


世界規模の消費社会によるシンクロニシティ

 これらのシンクロニシティー(同時性)に対するもっとも簡単な説明は、世界規模の消費社会ということだ。個人的な選択肢は豊富にあるにもかかわらず、皮肉にも各個人がみな同じようになり、私たちを一つのものにしているという消費社会だ。

 MTVが漢字を使うのはほとんど装飾的なものだという意見には落胆させられるかもしれない。アメリカ人が、漢字を読めなくても、たとえ外国語を学ぶ才能がなくても、外国からの新しいものを知るということにはまったく問題はない。というのは、そうした情報は、テレビからもまたマウスをクリックすることでも入手できるからだ。

 もっと希望的な可能性としては、実質的な中身のなさというものによって、世界規模の市場の無意味さから解放されるということがある。誤解、あるいは誤った解釈といったものは、あらゆるクリエイティヴな仕事において、非常に重要な要素である。特に“ポップ”という枠組の中ではそうである。おそらく日本とアメリカの両者にとってのもっとも有望な将来は、お互いを真似ようとしている間に犯す過ちの中で自分自身を表現しようとするときに、お互いが素晴らしい方法によって誤解を続けることで生まれるのではないだろうか。本書が英語に訳されたときに、私たちが日本文化について語ってきたこととを比べるのが待ち切れない。


ナサニエル・ワイス(Nathaniel Wice)
68年アメリカ・ファイラデルフィア生まれ。スティーブン・デイリーとともに米版「alt.culture」を編纂した。ハーバード大卒業後、音楽カルチャー誌「スピン」編集者を経て、音楽ジャーナリストとして活動。サイバースペースのトラベルガイド「ネットゲームス」「ネットチャット」(ランダム・ハウス刊)の著作もある。


【*注1】コニーチャン現象
コニー・チャンは、CBSのアジア系アメリカ人ニュースキャスター。毎晩6時30分からの「CBSイヴニング・ニューズ」のキャスターを男性キャスター、ダン・ラザーと担当していた。しかし、しばらく前に、オフレコで取った取材内容を放送し、バッシングされた。そのバッシング自体が、非常に過激なものであったため、それが、彼女がアジア系アメリカ人だからではないか、といった議論が巻き起こった。その一連の現象をまとめてコニー・チャン現象という。

【*注2】ミドリ
アメリカで発売されているリキュール・アルコール。その名はニューヨークのタイムズスクエアに大きなビルボードを立てて有名になった。

翻訳・脚注/吉岡正晴

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